星の速さで駆けてく
なんだか、彼氏持ち、彼女持ちを好きになる切ない話が多いなぁ……。
それでも、出会って、人を好きになるということは、いいことであると……思います。恋愛じゃなくても。
今は特にそういうことを考える時期なのでしょう。
でこねぇさんが、雑談部屋で、とってもいい言葉を教えてくれた(笑)
使わせて頂きます。
そう、幕末って「青春グラフィティ」なイメージがあって、そのイメージの源流は、どうやらこの「天まであがれ!」のようです。
「いよいよさいごの決戦ですな。うでがなりますな、あっはっは」
もうそこは死地だと知りながらも、なんともあっけらかんと、なんとも明るくそこに赴こうとするするその矜恃、そして、そうとしか生きられない透明な悲しさ。
それは、やっぱり今の価値観でははかれない、はかってはいけないものがあるのだと思います。
少なくとも、物語のなかだけは。
彼らは、その時代、たしかにそこを駆け抜けたのです。
うーむ。
たしかに、自分のなかにも、理屈よりも「和」の方に重点をおく考えというのは、すり込まれている気がします。
「怨霊信仰」は、「血液型性格判断」に似ています。
たとえば、権力者が、人を死に追いやったとして、その事に対して、おそれを抱いていれば、精神的にまいってしまうということは充分にあり得ます。それは、精神的にまいっているのですが、「怨霊」のせいということになる。
血液型性格判断の場合も、「あたってるよなー」「オレってB型だから…」と信じることにより、本当は同じ資質のものでも、ある程度、傾向がでてしまうことがあります。
えーでも、自分が何型か知らない子どもでも、血液型による性格の違いってあるやん。と思うかもしれませんが、親が仮に、血液型による性格の違いという考え方を信じていて、「このこは、O型だから…」と思って育てていれば、自分では意識しなくても、やっぱり、血液型による性格の違いというのは、血液型ではなくて対人における人の関わりとして、出てくるような気がします。
つまり、たくさんの人が信じていることは、それが迷信であっても、ある程度事実として、事実の方向に動いてしまうことがあるということですね。本当の理由は、「血液型」の違いではないのですが、結果として、「血液型」の違いによる性格の違いがあるように見えるわけです。
それを否定せずに、しかも、事実とそうでないことをわけていく作業というのは、なかなかに、難しそうです。
風が吹けば、桶屋が儲かる……ちょっと、いや、だいぶん違うか……。
頭が悪いので、ちょっとパンク気味。
子どもは、頼るものがないので、虐待されても虐待されても、親に従おうとするのだそうです。
決して、親が悪いとは思いもせずに、
「自分が悪い子だから、罰をうけている」
と感じるのだそうです。
親が不幸なとき、その不幸を自分の所為だと、意識している子、また、無意識に感じている子は、とても多い。
子どもを幸せにしたかったら、やっぱり周りにいる大人が、しっかりと夢を持って、幸せな状態でなければなりません。
虐待は、有馬の中に闇をつくりました。雪野もまた、その闇と対峙しなければなりません。
多分、時間と仲間だけが、それを超えていくためのカギになるのだと思います。
じゃあ、浅葉の抱えている闇は、なんだろう?
長く続くマンガは、盛り上がってはいけない。
盛り上がると、最終回になっていまうから。
ということで、このテンションでずーーっと続けるというのも、かなりすごいことだと思います。
「殿下もあと10年たてば大人に…」
これほど、ウソっぽい言葉も少ないな。