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フェルマーの最終定理

真面目なやつ。
まあ、わたしら一般ピーブルは、「哲学的な何か、あと数学とか」を読んでいたら、それで充分な気もする。

テストも何もなく、モジベーションをあげるためだけにこういう「数学史」とか、「科学史」みたいな聞き流す授業があったらいいと思うのだが、やってみるとけっこう難しいのかもしれないと、今は思っています。

単純に「効率」だけを考えると無駄な感じがするので(←ただし、感じがするだけで本当は有効かもしれなかったりするけれど、それをはかるのは難しいですねぇ)。そして、それを入れる時間もないか。

まあ、知識のおもしろさというのは、一定以上の知識の上に成り立っているみたいところはあって、その一定を超えられるかどうかで、世界は違って見えると思います。

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葬送のフリーレン9

黄金郷のマハト編。
相容れないものが、共存できることができるのか?
倒してしまうことが正しいことなのか。

なかなか、哲学的な話になってきました。

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どのような教育が「よい」教育か

ほっとくと人間は、自動化と単純化をしてしまう生き物です。そして、そこに論理とか論理的な思考というのはあんまりないんじゃないかと思います。
まあ、自動化というのは、本当に便利になることではなく、なんにも考えなくても処理を回せることだったりします。

だから、ある人にとっては、例えばExcelの操作で、マクロで一瞬にできちゃうようにすることが自動化ではなくて、ひたすら何時間かかっても、セルからセルにマウスでデータをコピペすることが、自動化だったりします。
子どもが、立式するときになんにも考えずにとりあえず足し算の式にしちゃうのも、多分、自動化。

だからまあ、その自動化したいという欲望自体は、多分間違ってはいない。でも、たいがいにして自分が理解できないことや、もう自動化がすんですんでしまっている物事に対し考えなおしたくない思いが強すぎて、方法は遠回りになっていたりします。

単純化についても、多分一緒で、人間は自分がわかっていないという状況に、あんまり耐えられない。
そのために、単純化して理解したふりをしたり、その問題に気づかないふりをしたり、まあ、本当に気づかなかったりもすきる。

ということで、本書の「教育」の問題。
教育の問題は、大事なのに短いスパンで直接自分に不利益が返ってくることはない(ように見える)ので、とってもいじりやすいかも。
どんな方法にも、いい面、悪い面はあるけれど、極端でわかりやすい意見は、とっても、耳触りがよくて、人気が出やすい。
なによりも、子どもに厳しくしようが、優しくしようが、まあ、自分に直接そんなには関係ない。(まあ、子どもが実際にそのことで直接困っている親にとっては、とんでもないことではあるのだが)
だから、どっかででコロナで休校にして人気が出たりしたら、その人気にあやかろうとする一国の首相(ご冥福をお祈りしますが、やったことの成否はしっかりと精査されることを望みます)が、誰に相談せずに、ある日いきなり夕方の記者会見で、

「明日から、全国の学校を休業します」

なんて、いうこともあります。
そうなると、もう、メチャクチャ。

そして、あっちも良ければ、こっちも良いというのが、今の教育で、極端から極端に印象だけで振られていく。

これは、激しく同意します。
そして、ぼくたちは、

「どっちが正しいの?」

となってしまう。
そこに、ちょっとまて、その考えでは永遠に平行線か、ニヒルになっちゃうから、考え方全体を変えてみないとというのが、この本の趣旨です。多分。
教育書というよりは、教育について語るための前提の哲学みたいなお話です。

書かれていることは、メチャクチャもっともです。が、こんな面倒くさいこと、人間にと言うか自分にできるのかと聞かれると……。

極論にいかずに、今の社会が求める丁度いい地点を考えようという、ロウ-ニュートラル-カオスなら、ニュートラルにいこうという考え方で、確かにその通りなのだが。

でも、まず人間の安定って、実は自動化にあったりしないかな。思想であっても、自動化しないということは、かなりストレスなのでは……。
それから、ニュートラルの位置って、実は、みんな違うよねぇというのもあります。
今やっていることも、極端から極体への移動に見えているけれど、もしかしたら、ただ単なるこのニュートラルの位置の取り合いであったりはしんいのかなぁと考えてしまいます。

まあ、これはどうしても、特に年を取ってきて、自分の考え方を動かすのが苦手になってニヒルになっている証拠なだけだという気もします。
まあ、昔からニヒルは格好良いという感性の持ち主だしなぁ。

まあ、教育は少なくとも政治からは一定距離以上離れていて欲しいと思う。
こんな便利なものを手放す気はないだろうとは思うけれど。

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知ってるつもり 無知の科学

大変、真面目なお話でした。
もうちょっと、茶化した「実はこうなっているの知らなかったでしょう」みたいな雑学的な本かと思っていたけれど、掃いたツバが自分に返ってくるような哲学的なお話でした。

まあ、そうやって無知であるにもかかわらず、知ってるつもりになって生きていられるからこそ、人間は、しあわせに生きていけるんだろうなぁとも思います。

鬱のお話を読んだときに、基本的に世界の状態というのは、普通の思考力があれば鬱になってしまうぐらいに心配事がたくさんあって、実は、それを気にしないぐらいにわたしたちが鈍感で考えなしで楽観的だからこそ、普通の人は生きていけるんだよみたいな話があって、それとちょっと似ている。

まあ、それは、周りで生きている人間とか、社会に対する信頼でもあって、そうして、人間がみんなお互いを補い合いながら生きている。

だとすれば、この哲学の行き着く先って、けっこう明るいと思います。

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翔太と猫のインサイトの夏休み 哲学的諸問題へのいざない

真面目な本です。多分、子どもは、読めない……というか、読まないのでは。というか、わたしも、半分ぐらいとばし読みでした。

こうやって、読んでみてわかったことは、わたしは、哲学史は結構好きだけれど、自分で哲学するのには向いてないな。まあ、読んでみなくても、わかっていたことかも……。

ループに入っていく(入れ子になっているでもいいんですが)ことを、グルグル考えていくのには、向かない。そして、たいがいの問題は、ループになっているような気がしてきました。

そして、それを突き詰めて考えていくと……気が狂うのでは??ちょっと、この物語の翔太にも、そんな印象を受けたりもしたので、作者も、もしかしたら、若干、そう思っているのかも。
そして、それを知りながら、この迷宮に誘っているとしたら、永井 均は、メフィストなのかもしれない。