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「算数」を探しに行こう!

なんか、数学史みたいなものが読みたくなって選んだ本なのですが、そういう期待からは、かなり違ったものでした。

「こうやると、算数がおもしろくなる」みたいなことが書いてありますが、そうかぁ?
数学のおもしろさって、そんなものがなくても、純粋におもしろいんではないかと思ったりもします。

「算数」を探しに行こう!―「式」や「計算」のしくみがわかる五つの物語

石原 清貴, 沢田 としき / 新潮社


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柳田國男 ちくま日本文学全集33

柳田 國男の名前を知ったのは、きっと大塚 英志経由だと思うので、高校生ぐらいの時かな?多分、大塚 英志のマンガを民俗学的に読み取るという評論のなかだったと思います。

そして、「遠野物語」は、高校の時の読書感想文の課題図書の中にあった。実際にわたしが読書感想文を書いたのは、カフカの「変身」で、他の本は読んでいません。
そして、「遠野物語」と「変身」以外は、題も著者も覚えていないのだから、「遠野物語」は、そのときから、ずっと引っかかっていたのだと思います。

内容は、なんとなく聞き知っていた。なんか、昔話みたいな話らしいと。

大学で、「文化人類学」の講義をうけて、おもしろかった。そこで、日本にもよく似た「民俗学」という学問があると聞いた。その大家が、柳田 國男らしいという話も聞こえてきた。
「民俗学」というものの輪郭が、なんとなく朧気に見えてきた。

「遠野物語」。いつか読んでみたいと、新潮文庫の本も持っていたと思いますが、読む機会がないままウン10年。

今回、やっとこさ、その「遠野物語」と、柳田 國男の作品に触れることが出来ました。

昔話だと思っていました。
違っていました。
ここで語られる遠野のお話は、もっともっと身近なこととして語られていました。

そして、アウトローに生きることすら認めてしまう大きさ。
嘘を笑い飛ばして、生きていく強さ。

そこはかとないユーモア。

「草の名と子供」を最初に読んだとき、いや、草の名は子どもが考えたのではなく、大人が考えたのだろう。昔の人は、今の人以上に草と接している時間があったのだからと、思いました。
それから、フッと自分の間違えと、柳田 國男の正しさに気づきました。
そう、昔の子どもは、大人以上に、ずっとずっと草と接し続けていたのだと。そして、そのまま大人になっていたのだと。

この人の目は、決して優しい目ではないと思う。
でも、なんでも、受け入れてしまう大ききな大きな目です。

そして、今、自分がこの年齢だから感じられることもいっぱい入っていると思います。
出会えて、よかったです。

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西の魔女が死んだ

西の魔女が死んだ

あぁ、これは好きです。

「裏庭」で気になっていた、「あちら側の世界」がないというのも大きいのですが。

なんとなく読みながら、コエーリョの「アルケミスト」を思い出しました。
そう、「賢者」には、こんな風に、生活に根付いたところにいて欲しいものです。

実は、ここにかかれている不思議というのは、全然、不思議ではないのかもしれません。
おばあちゃんぐらい先が見通せる人なら、あらかじめそうしておくことも可能かと思います。

でも、そうだとしても、やっぱり「不思議」は残ります。
そういった不思議をいっぱい積み重ねて、今のわたしたちがあります。

自分らしい自分を受け入れること。
でも、自分らしいとはいったいどういうことなのかを問い続けること。
自分で、決めること。

最後の1ページ。
次に書かれている文字は、めくる前から、きっと読者にもわかっています。
でも、それを目にした瞬間、ブワッときてしまいました。

渡りの一日

「西の魔女が死んだ」の後日譚です。

しかし、潔いほどおばあちゃんの影はでてきません。もちろん、その影響は、空気のように物語の中に、まいに浸透しているのですが。

まいの心が軽くなった分、物語的にも、軽くて明るい色合いが感じられて、このお話好きだなぁと思いました。

ある意味ストーリーがよめちゃう部分もあるのですが、それが、スッキリとはまってとても気持ちいいです。

「裏庭」を読んでいたときの違和感はなかったです。

ということで、もうちょっと、梨木香歩を読み続けてみようと思いました。

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裏庭

「西の魔女が死んだ」も、この「裏庭」も、メチャクチャ、題名がいいですよねぇ。
気になっていた本なのです。

ということで、今回、読んでみました。
期待していたのと、ちょっと違う、微妙な味でした。

「丘の麓のバーンズ屋敷に何か秘密があることは、当時その辺りの子どもなら誰でも知っていた。」

この始まりの一文は、けっこう強烈に惹きつけられます。

そして、見捨てられたと感じている少女の紹介、それから、おじいさんとの出会い、おじいさんの語るバーンズ屋敷の不思議。

はっきりいって、すごいと思いました。
一気に、物語の世界に引き込まれた感じです。
これは、傑作だ!!!

ところが、照美が、向こう側の世界に行ってしまったぐらいから、ちょっと違和感のある展開に。
なんだろう、向こう側の世界が、ちっとも、しっくり来ないのです。

現実の世界と、向こう側の世界の物語は、平行して語られていきます。

現実の世界の物語を読んでいる時は、メチャクチャおもしろいし、大好きだと思って読んでいるのですが、異世界のテルミィの冒険の話になると、サッパリおもしろくなくて、パッタリと先に進まなくなってしまうのです。

なんだ、このギャップは???

わたしは、けっこう物語の好き嫌いというのがハッキリしていて、好きな物語を書く人の物語ならば、たいがい好きなことが多いのです。

でも、1つの本の中に、「メチャクチャ好き」と「ナンジコリャ?」が同居している本というのは、けっこう珍しい存在です。

つらつらと考えみるに、あまりにも、向こう側の世界が、インナースペースすぎるのかもしれません。
心理学的な学説で組み立ててみた世界みたいな感じで、生きている感じがしないのです。
いろんな寓話というのは、多分、無意識の領域からきていて、ドロドロと見えない部分がいっぱいあるはずなのに、妙に理路整然とならんでいるみたいな感じです。

現実の世界から、向こう側の世界を語っている時は、メチャクチャ魅力的に見えるのに、実際にいってみると、なんか、ヘンなんですよ。
それはけっして、向こう側の世界が、崩壊しかかっているためだけではなく、多分、全盛期の世界を描写されても、ヘンな感じがするだろうなぁという違和感です。

で、ラスト、照美が、現実に帰ってくると、ものすごい輝きを物語が放ちます。
自分をうけいれる物語。これは、ただ単なる「めでたしめでたし」で終わる物語のはずもなく……。
でも、ある意味、大人にも子どもにも、救いをもって。

通過儀礼の物語だったのだと思います。
ただ、あまりにも、その物語の構造を意識しすぎて、それが、向こう側の世界でストレートに出すぎてしまって、鼻についたのかも。

エピローグは、けっこう好きなんですけどねぇ。

第1回児童文学ファンタジー大賞。
児童というのは、小学生のことですよねぇ。
えーと、はっきりいって、これ、児童に理解しろというのは、かなり大人の身勝手というか、理想を子どもに押しつけているというか……。

大人が読んで、いろいろ考えるはいいんです。
でも、これを子どもに読ませて、「大人も苦しんでいるのを理解して」とは、言いたくないなぁ。

そのあたりの引っかかりはあります。
もうちょっと他の作品では、どう書いているのかみてみたいです。しばらくつきあっていこうと思っている作家です。

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石の扉 フリーメーソンで読み解く世界

なんか、最近、偶然この本を読んでいたり、現在進行形で「黙示録」という本を読んでいたりで、テンプル騎士団の話とかでていて、なかなかタイムリーでした。

ただし、内容はというと、重要なことになるとぼかされているし、なんか、自慢話っぽい話なので……なんじゃこりゃって感じですねぇ。

俺たちメイスンは、「影で力をいっぱい持っているんだ」ということと、「でも、それは、違法行為ではないんだ」ということが、微妙にケンカしている感じです。やっぱり、違法行為的なことにも、力をもっているんだといいたいきもちが、いっぱいです(笑)

なにが目的で書かれた本なのかが、イマイチ伝わらないのが……。

わたしも、メイスンについて大胆な推理をしました。
それは、古代中国は、メイスンが作った!!(爆)
古代中国の神様って、コンパスとか、定規もっているでしょう。あれって、あきらかにメイスンのシンボルだ!!
中国は、古代から、万里の長城などの巨大建築を築いてきた。あの技術の源には、あきらかに、そういった集団がかかわっていると考えられます。

てな感じ。
まあ、わたしが生活していくのには、影響のない連中のようです。