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ブラック・ジャック創作秘話3 手塚治虫の仕事場から

あぁ、これが、大塚 康生さんが言っていた孫悟空かぁ。
見る角度が違うと、見えるものも違っているのは当然なんですが、こうやって、いろんな方向から見るのは楽しい。

まぁ、このあたりの主張は、あっちが正しい気がします。なによりも、多分、手塚 治虫、忙しすぎ。

あと、エピソードとしては、おもしろいもの順にかかれているのだと思います。小粒なエピソードが多くなってきた気がします。

彼の海賊版に対する対応が、美談として語られるのは構わないのですが、それができないからといって、他のマンガ家を決して非難してはいけない。

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かぐや姫の物語

あぁ、これかぁ。
大塚 康生が、あの本で書いていた日本独自のアニメの動きというのは……。
アトムじゃない動きというのは……。

あの文章よんだだけではイメージできなかったけれど、ジブリの人は、日本のアニメの「動き」の表現を本当はこっちに持って行きたかった。
その動きの凄さ。

まずは、それが第一印象。

それから、ストーリー。
高畑 勲のすごいところは、多分、その原作へののめり込みの深さと理解の深さ。
見えないところをみせてくれる。でも、それは元々、あくまで原作にあったものなので、その凄さはわかりにくいのかも。

だって、ビックリするほど「竹取物語」なんですよ。でも、「竹取物語」を読んだときって、ここまで、いろいろなことを考えたりしない。
実は、けっこう原作から離れている部分もあるのですが、それでも、「ビックリするぐらい竹取物語」だと感じさせるところもすごいのかも。

多分、それは、「じゃりン子チエ」のときでも、「火垂るの墓」のときでも、同じことが起こっているのだと思います。

そして、これが、ものすごい高畑 勲の才能であり、また、原作をつぶして自分の主張に持って行かない高畑 勲の限界なのかも。
その「限界」そのものが「才能」であるような気もしますが、オリジナリティが大切とされる今に置いては、あまり評価されにくい。
というか、「それ知ってる」……とか、「それ知ってた」っていわれるのかなぁ。
ストーリー的な驚きは、ほとんどない。

というのが、高畑 勲に関して考えた話です。

で、「かぐや姫の物語」の話です。

すごい、切ないお話です。
天人であるかぐや姫と地上の人のお話です。

かぐや姫は、地上に憧れたために、記憶を封ぜられて地上に堕とされた天人です。
映画のパンフレットとかを見ていると、無理矢理堕とされたというよりは、かぐや姫がものすごく地上に憧れた。
それが罪。

そして、地上に降ろされた。
もちろん、その時、天人に「お前は穢れだから追放」とか思っているのではなくて、「心配やわぁ。でも、そこまで言うのなら行っておいで。いつでも、助けてあげるよ」というもののようです。
まぁ、多分、天人って、基本、そんな厳しい感情はもってないような気がします。

というか、地上にある喜怒哀楽、振れ幅の大きな感情のすべてが罪なのかも。
そして、その揺れ幅の大きさ故に、姫は天人のなかでは異端であり、ものすごく地上に憧れたのではないかと思えます。

そして、その憧れた強い感情は、でも、天人にとっては毒にしかならない。
いかに毒にしかならないかということが、延々と綴られていく。
自然や、物事は、姫を傷つけたりしない。
ただ、人の心だけが、好意さえも姫を傷つけていく。

それは、地上の人にとっても同じ。

姫は地上に憧れて傷つき。
地上の人は、姫に憧れて傷つく。時には、命をなくしてしまう。

お互いに憧れながらも、どうやっても相容れないんだよということが、映画のなかで延々と語られていきます。
幸せだったのは、生まれてからの少しの子ども時代、村で過ごした時だけ。

最初は、翁が、姫を都につれていき、都で立派に育てようという思いをもつ。
それは、姫のことを真剣に思ってのこと。
だって、翁が都に行くまで、ずっと悩んでいるんですよねぇ。なにが、姫にとって1番か?天がなにを望んでいるのかを。

多分、天にとって地上での栄達は、なんの意味もないことなのかもしれないけれど、地上の人である翁は、天に答えるために最高の人生を与えたいと思ってしまう。

でも、それは姫にとっては、負担でしかない。
翁が、なぜそんなことを言い出しのかを理解することができないし、自分の心に背いて生きることにしあわせを感じることができない。

そこには、かぐや姫の成長が早すぎたために、反抗期をもてなかったという悲劇もあるのだと思う。
本来なら、「大好きなととさま」から、だんだんとアラもみえてきて、反抗期があって、また、見直してみたいなステップを踏めるのだが、いっきに大人になってしまったために、「大好きなととさま」のまま、翁の困った部分を受け止めきれない。

翁だって、姫がきれいだから愛したわけではないと思う。
でも、姫が美しいから、その天が与えた美しさや、その姫のために竹につめて送られてく金銀財宝に見合った生活をさせるために(あくまでも、自分がするためではなくて、姫にさせるために)都に行こうと思った。

天は、金銀財宝は、ただの姫の養育費の仕送りのつもりで送っていただけで、その金が、どんな不幸や混乱をおこそうが、それは、汚き地上のことなので、まったく気にしていない。
その価値観の違いが、また、悲劇。

そして、都では、その天人である姫の美しさ、完璧さが、また人々を不幸にしていく。

貴族なんて、何不自由ない人間ですら、姫をもとめて不幸になっていく。

それは、貴族だからおこることではなくて、捨丸ですら、姫に誘われたら、妻子を捨てて飛ばざるを得ない。人生メチャクチャになります。

でも、それに対して、姫が少し罪悪感を感じることはあっても、どうして、そういうことが起こるのかを理解することはない。
あくまでも、姫は、自然のままに生きている天人だから。

翁と媼だって、物語の上では見せてないけれど、多分、慣れない都の生活で、神経をすり減らした筈。
なによりも、1度手に入れた玉を、手放さなければならないのは、身を切られるよりも辛かったはず。

そして、この物語の怖いところは、そういう天人と地上の人との間の理解できない関係って、実は、この世界で、ごく普通に起こっているとても、ちっさなことだよねということをかいていること。

男女の違いや、世代の違い、生まれの違いで、簡単に起こっていること。

いいこと、うれしいこと、それから悲劇、全部ひっくるめて、「世界」ってこうだよねと示している。
しあわせもたしかにあるのだけれど、それと同時に、どうしようもない現実もある世界。
その中の「しあわせ」の意味や価値は、全部、自分で考えていきなさい。
そんな風に、突き放した映画だと感じました。

この映画を見ながら考えていたのは、天人が罪で天上から落とされて、罪を償って帰って行くといこと自体が、自然の中にあるシステムなのかもしれないなぁということ。
そのシステム自体には、もしかすると深い意味がなくて、四季の変化みたいなものなのかもしれない。

無粋だけど、そのシステムに理屈をつけるのなら、長い時間が過ぎると、天人にも、少しずつ汚れが生じてしまう。それは、実は、天人の個人的な問題ではなくて天上の世界全体の問題として。
天上では、その汚れをすべて少女に背負わせて、その子が、地上で生きる(わがままを言ったりする)ことでその汚れを浄化しているのではないか。

地上も、罪人といえども天人である姫を受け入れることで、ちょっとだけ浄化される。

その繰り返しが、延々と、天上と地上の間で行われている。
そういうお話だったのかも。

今まで、「火垂るの墓」と「じゃりン子チエ」以外の高畑作品って見てなかったのだが、ちょっと見た方が良いかも。

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作画汗まみれ 改訂最新版

日本のアニメーションの歴史を語る1冊。
割と目に入るのは、手塚 治虫が中心にいるものがほとんどだった。

これは、アンチ手塚 治虫です(笑)

手塚 治虫が、いかに若者をそそのかしビジョン無く食いつぶしていったか、そして、いかに日本のアニメから「動き」をなくしてしまったか、いかに、労働環境を悪くしたかということが語られています。

そして、それでも見えてくるのは、まわりをものすごい勢いで巻き込んでいく、手塚 治虫の熱量であったり、才能であったりもするのですが。
たった1人が、日本のアニメ界の未来を修復不可能なほど壊してしまった……と、ジブリというか、元・東映動画の人は思ってるみたいです。
そんなことができるのは、やっぱり手塚の天才を感じます。

まぁでも、宮崎 駿たちだって、家にも帰らずにアニメを作っていたんだから、そんなに労働環境は変わってなかったような気もします。

一から日本のアニメーションを作り上げてきた人による理論書であり、またその日本のアニメーションの黎明期の証言でもあります。

かなり貴重な本だと思います。