デルフィニア戦記 第1部 放浪の戦士1
あぁ、これもいいですね。
茅田 砂胡は、児童文学の人ではなくて、ライト・ノベルの人なのだそうです。でも、そんなに差って、ないと思います。
近いなと思ったのは、竹河 聖の「風の大陸」かな。自分のイメージのなかでは、ティーエのいない風の大陸という感じがずっとしていました。
まあ、リィが、ティーエの役も、ラクシの役も、軍師の役もしている感じですね。
でも、こっちの方が、無骨な感じはするかな。
あぁ、これもいいですね。
茅田 砂胡は、児童文学の人ではなくて、ライト・ノベルの人なのだそうです。でも、そんなに差って、ないと思います。
近いなと思ったのは、竹河 聖の「風の大陸」かな。自分のイメージのなかでは、ティーエのいない風の大陸という感じがずっとしていました。
まあ、リィが、ティーエの役も、ラクシの役も、軍師の役もしている感じですね。
でも、こっちの方が、無骨な感じはするかな。
世の中には、まだまだ、面白い話書く人が、いっぱいだ~。と、思い知らされた1冊。
「守り人」シリーズが文庫になったので読み始めよう1ということで、その助走のつもりで読んだ「狐笛のかなた」なのですが、思わずはまってしまいました。
今、日本の女性作家の児童文学を何冊か読んでいます。
「西の善き魔女」「勾玉シリーズ」の荻塚 規子、「パッテリー」のあさの あつこ、「西の魔女が死んだ」の梨木 香歩。
で、荻塚 規子とあさの あつこは、子どもが読んでもちゃんと面白い児童文学をしていると思います。
でも、実は、梨木 香歩や、この上橋 菜穂子は、児童文学といいながら、子どもが読む本だとは、とても思えないのです。
それは、決して、4人を比べて、どっちが優れているとかそういう問題ではなくて、
「この切り込み方は、ある程度人生経験がないとわからないだろう」
と思わせるものが、梨木 香歩や、上橋 菜穂子にあるのです。2
「弧笛のかなた」は、ストーリーだけ追っていくと、メチャクチャ悲惨で暗い話のはずです。でも、不思議とそれは感じない。もちろん、脳天気なのではなくて、物語の1番奥のところに悲しみは流れているのですが、それでも、淡々としたそれぞれの生をかいています。
これは、上橋 菜穂子の圧倒的な文章のうまさがあって、なりたっているのだと思います。
楽しいシリーズが、これからも待っていると思うと、ちょっと幸せなりんでした。
きれいにまとまっていく、タイムパラドックスものです。
普通は、「そうして歴史通り悲劇は繰り返された」か、「そうして彼らの活躍によって歴史は塗り替えられた」のどっちかの結論がでるとおもうのですが、この物語は、そのどってでもなかったです。
「時間」をテーマにしているとわかった時点で、かなり読めている部分もあるのですが、その分、現代の物語らしく、こんがらがった話になっています。
ちょっと、詰め込みすぎなところ、トントン拍子でお話が転がりすぎてしまうところはあるのかも。
でも、そういう世界設定うんぬんかんめんではなく、読み終わった後の感じは、
「あぁ、いいジュブナイルを読んだなぁ」
という気持ちです。
岩本 隆雄の新しい話(といっても、出版されたのは7年ほど前ですが)を読めて、素直にうれしいです。
「イーシャの舟」が好きといっているわりに、驚くほど純の印象が残っていません。たしか、小学生ぐらいのおんなの子が、イーシャの友だちだったような……。
すると、「イーシャ」は、「鵺姫真話」の前日譚ということになるのでしょうか?
次は、大好きな「イーシャの舟」の再読です。
楽しみですが、少しこわい気もします。
「西の魔女が死んだ」も、この「裏庭」も、メチャクチャ、題名がいいですよねぇ。
気になっていた本なのです。
ということで、今回、読んでみました。
期待していたのと、ちょっと違う、微妙な味でした。
「丘の麓のバーンズ屋敷に何か秘密があることは、当時その辺りの子どもなら誰でも知っていた。」
この始まりの一文は、けっこう強烈に惹きつけられます。
そして、見捨てられたと感じている少女の紹介、それから、おじいさんとの出会い、おじいさんの語るバーンズ屋敷の不思議。
はっきりいって、すごいと思いました。
一気に、物語の世界に引き込まれた感じです。
これは、傑作だ!!!
ところが、照美が、向こう側の世界に行ってしまったぐらいから、ちょっと違和感のある展開に。
なんだろう、向こう側の世界が、ちっとも、しっくり来ないのです。
現実の世界と、向こう側の世界の物語は、平行して語られていきます。
現実の世界の物語を読んでいる時は、メチャクチャおもしろいし、大好きだと思って読んでいるのですが、異世界のテルミィの冒険の話になると、サッパリおもしろくなくて、パッタリと先に進まなくなってしまうのです。
なんだ、このギャップは???
わたしは、けっこう物語の好き嫌いというのがハッキリしていて、好きな物語を書く人の物語ならば、たいがい好きなことが多いのです。
でも、1つの本の中に、「メチャクチャ好き」と「ナンジコリャ?」が同居している本というのは、けっこう珍しい存在です。
つらつらと考えみるに、あまりにも、向こう側の世界が、インナースペースすぎるのかもしれません。
心理学的な学説で組み立ててみた世界みたいな感じで、生きている感じがしないのです。
いろんな寓話というのは、多分、無意識の領域からきていて、ドロドロと見えない部分がいっぱいあるはずなのに、妙に理路整然とならんでいるみたいな感じです。
現実の世界から、向こう側の世界を語っている時は、メチャクチャ魅力的に見えるのに、実際にいってみると、なんか、ヘンなんですよ。
それはけっして、向こう側の世界が、崩壊しかかっているためだけではなく、多分、全盛期の世界を描写されても、ヘンな感じがするだろうなぁという違和感です。
で、ラスト、照美が、現実に帰ってくると、ものすごい輝きを物語が放ちます。
自分をうけいれる物語。これは、ただ単なる「めでたしめでたし」で終わる物語のはずもなく……。
でも、ある意味、大人にも子どもにも、救いをもって。
通過儀礼の物語だったのだと思います。
ただ、あまりにも、その物語の構造を意識しすぎて、それが、向こう側の世界でストレートに出すぎてしまって、鼻についたのかも。
エピローグは、けっこう好きなんですけどねぇ。
第1回児童文学ファンタジー大賞。
児童というのは、小学生のことですよねぇ。
えーと、はっきりいって、これ、児童に理解しろというのは、かなり大人の身勝手というか、理想を子どもに押しつけているというか……。
大人が読んで、いろいろ考えるはいいんです。
でも、これを子どもに読ませて、「大人も苦しんでいるのを理解して」とは、言いたくないなぁ。
そのあたりの引っかかりはあります。
もうちょっと他の作品では、どう書いているのかみてみたいです。しばらくつきあっていこうと思っている作家です。