10年目の大団円
ハリー・ポッターと死の秘宝 下
最終刊。
ついに完結しました。
おもしろかったーーー。
何回か書いた気もしますが、本当に1巻の「ハリー・ポッターと賢者の石」を読んだときは、
「なんじゃこりゃ……」
と思ったんですよ。
「これがおもしろい……???どこが???設定が???」
多分、いろんなところで、「ハリー・ポッターより面白い!!」なんて特集を組んで、「ゲド戦記」を紹介した人たちも、同じ気持ちだったんだと思います。1
でも、こうやって7巻の最終刊まで読むと、そんなふうに、「おもしろくない」と感じたことのほとんどが、ローリングが物語に仕掛けた罠だったんだなぁと思ってしまいます。
以下、ネタバレありです。
なによりもすごいのは、作品中で7年間。ちゃんと、登場人物たちが、成長しているところですね。
児童文学は、もちろん、成長を書く作品もたくさんあるんですが、作品が全体としてろ、一定の年齢向けに書かれる傾向があると思います。
そうすると、成長したように見えても、実はかわっていないということが、けっこうあります。
でも、この作品は、登場人物の年齢が上がるにしたがって、対象年齢も上がっていく感じです。
実は、はじめから子ども向けをあんまり意識して書かれたわけではないのかもしれませんが……。多分、10歳の子には、この7巻目とかは、充分に理解して楽しめない気がします。
逆にいうと、今、三十うん歳のわたしが、1巻目を楽しめなくて、小学生の子どもたちに(彼らが流行に弱いという部分はさしおいても)、熱狂的に受け入れられたというのは、実は、1巻目というのは、10歳の子どもたちにとっては、ものすごく良く理解できる物語だったのかもと思います。
ハリーの父親の欠点が書かれたところには驚きましたが、ダンブルドアにも、欠点があったという描写は、本当にすごい。
そして、欠点があってなお、愛するべき人物である、素晴らしい人物であるというのを書くのは、かなり難しかったと思うのです。
また、正義であること悪であることと、技術的に優れているということには、なにも関係ないということも。
ダンブルドアが、スネイプに、
「リリーも、ジェームズも、間違った人間を信用したのじゃ」
という台詞は、彼の自分の無力さをかみしめている言葉として、ものすごく強い印象を残しています。
スネイプも、ひっぱったなぁ。
ところどころ、描写や、書かれ方で、気になる部分がありました。屋敷妖精たちの書かれ方や、「マグル」という言葉の使われ方。
それも、かなりローリングは、意図して、この結末のために書いていたのだなぁと思いました。
まあ、この後半の死にまくる展開は、多分、賛否がわかれるところだとは思うのですが、今までの「学園」と「現実の生きていく世界」との対比をさせるときに、やっぱり、何人かの犠牲はしかたなかったのかなぁと感じます。
指輪物語がフロドに「いやせない傷」を残して終わることでファンタジーを越えていったように、この展開は、「ハリー・ポッター」が、今までの児童文学や、物語を越えていくために必要だったんではないかと思います。
スリザリン寮の子どもたち、マルフォイについては、私的には、物足りないものも感じました。
各寮の対立そのものはあってもグリフィンドールであっても、ヴォルデモートにつくものはいたと思うし、スリザリンであっても、敵対するものはいたと思うし、そういうことも書けていたら、よりおもしろいなあとは思いますが(ローリングなら、そういうことも書けそうな気がしますが)、そうすると、この長い物語が、さらにとりとめのないものになってしまっていたのかもしれません。
でも、今は、けっこう満足な気持ちです。
これが、世界で1番読まれるべき物語なのかどうかは、わからない。
10年、20年と読み継がれていく物語かどうかは、知らない。
もっと、おもしろい物語は、多分、いっぱい存在する。
でも、これが自分にとっては残る大作物語だったのは確かです。
- まあ、でも、わたしはゲドは1巻しか読んでいませんが、今のところ、そんなにすごくおもしろいとは感じてません。 [↩]
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