新吼えろペン10
マンガがここまで政治的になったら、やっぱり、いやだなぁと思う1巻。
距離感というのは、大事です。
あぁ、ある意味、ゴーマニズム宣言とかは、それをリアルでやっているといってもいいのかな。
文学を政治という枠にはめて読み取ろうとする試みです。今、大塚 英志のなかでは、「政治」がはやりなのだと思います。
もうちょっと詳しく書くと、「右翼的なものの考え方の脱却」かな。
政治というものさしがしっかりしている分、評価はぶれない。
だから、紹介している文学をほとんどすべて、ぶった切っています(笑)認めているのは、安部 公房と大江 健三郎ぐらい。
それ以外は、三島 由起夫も、太宰 治も、井伏 鱒二も、全部、ぶった切られています。
えー、それなら、わざわざ「読め」って、紹介しなくてもいいじゃん(爆)安部 公房と大江 健三郎だけ読んでいたらいいじゃないか。
まあ、多分、大塚 英志が思ったのは、
「初心者が文学を読んだとき、文学に騙されない」1
ためのガイドなんだと思います。
まあ、物語の読み方はそれぞれなので、もちろん、こういう読み方も悪くないと思います。でも、それを「初心者」に「ガイド」するというところに、大塚 英志の悪意……というか、作為を感じます。
そういえば、わたしが大塚 英志の本で最初に読んだのが、「<まんが>の構造」でした。
これは、マンガを民俗学的という枠のなかで読み取ろうとする試みで、ものすごくスリリングで楽しく読んだ記憶があります。
多分この「<まんが>の構造」も、本書も、同じ仕組みをもつものなんだと思います。
でも、民俗学は、ある意味、物語を読み解くためのものなのですが、政治というのは、物語を読み解くために適当かどうかというと、ちょっと疑問です。
最終的に、江川 達也の「日露戦争物語」の様に、物語否定になったら、ちょっとイヤだと思いました。
でも、三島 由紀夫も、太宰 治も、大江 健三郎も、もう1回読んでみようかなという気になりました。
安部 公房だけは、なんとなく物語があんまりにも作為的すぎる気がして、避けたい気持ちですが。でも、ある意味、作者の強烈な作為がないかぎり、「物語らしさ」、「物語としての整合性」という枷は、「気持ちいい」方に、右翼的な方に、傾いてしまうのかもしれません。
でも、それは、思想的には正しくても、物語としておもしろいのか?
南京問題などで、ゴチャゴチャしちゃったラストです。
まあ、完結しただけでも、めっけもんなのかもしれません。
メチャクチャ早送りでの展開だったのは、否めないなぁ。
ただなぁ、作者の考えていた形で物語が完結せずに、(外部の要因で)歪められてしまうというのは……若干、抵抗あるなぁ。
物語として完成させたあとで、その真偽や、責任を考えていった方が、いいと思うのですが。
結局、いろんなことを「封印」して、思考停止してしまうきらいがあるなぁ。
連載作品には、常にこの怖さがつきまといます。でも、書き下ろしって、やっぱり、大変そうだし。
もともと、政治的な情報を物語の中に取り入れるのがあんまり得意でない本宮 ひろ志なので、今回のような早送りにならなくても、時代背景の説明は、文字の羅列になってしまうところがあるのですが。
この巻は……まあ、さすが江川 達也の師匠といっておこう……。
でも、物語としての大きなうねりは、しっかりとある。
確かに、こんな官僚が1人、自分のそばにいてくれたら、それはなんて心強いのだろうかと思います。
結局、心強い以外の役には、あんまり立っていないけれど。それでも、それが生きるささえになることはあるので。
やっぱり、この時代は、物語にするのは情報量が多すぎて難しいというのが、いろいろこの時代の物語に接していて思うことですね。
理解する前提条件がないのは、確実ですねぇ。このあたりの歴史の知識って、長岡良子のマンガだけだからなぁ。わたしの知識は。
でも、聖徳太子の時代から、藤原不比等の時代まで、地続きで続いているのだなぁというのは、すごく感じました。
それを感じさせてくれたというは、なかなか、貴重だったかな。
元々の神道の考え方などは、それは正しいかどうかは別として、とても魅力的なものではあるなぁと思います。
その魅力は、簡単に、政治的なプロパガンダになってしまう可能性があるので、気をつけないといけませんが。