ヘルマン・ヘッセ全集6 物語集4 1908-1911
「物語集」4。
「都市」みたいな変な小説もあるけれど、まあ、ほとんどは、愛すべきキャラクターたちの物語です。
「クジャクヤママユ」は、高校時代の「少年の日の思い出」の刷り込みが強くて、あっちの方が完成されていて好きです。
あれ、翻訳家がかなり改変しちゃった小説みたいな話も聞いたような気がするのですが、それは、間違えなのかな。
「物語集3」。
次は、「ゲルトルート」だと思っていたのですが、5巻、6巻は、物語集でした。
ということで、「車輪の下」から「ゲルトルート」までの間、同時期にかかれた短編集という感じです。
なんとなくですが、ヘッセ自身の書きたい物語と売れる物語の間で、ちょっとずつ調整をしているような様子も感じられるかな。
「ある文通」とか、「友人たち」は、それが綺麗に整理されて表現されている気がします。
自分のためだけにかいていたら、多分、ここまで愛される作家にはなってなかったんだろうなぁ。
そういうところも、実はヘッセの好きなところです。
さて、心配していた「車輪の下」ですが、楽しく読み終わりました。
というか、割と記憶にあるよりも、明るく緩いぞ。まあ、頭痛という重低音がずっと鳴っているのですが。
まあ、そもそも初めて「車輪の下」を最初読んだのは、小学校高学年か中学校ぐらいのはず。
部屋に兄貴のお古の子ども向けの世界文学全集みたいなのが並んでいて、まあ、暇なときにそれをパラパラ読んでいる子どもでした。土に日の朝とかは、親が起きてくるのが遅かったので、そういう時間があった。
その手の全集を買ってもらっている人は何人か知っていますが、それ読んでたというのは、うちのねぇさんに出会うまではあったことなかったです。
その中に「ああ無情」というのがあって、まあ、「レミゼラブル」なわけですけど、メッチャ印象的なシーンが、ジャンバル・ジャンが、自分の正体がばれてしまうのも気にせずに、馬車かなんかの下敷きになったおばあさんをたすけるシーンでした。
で、「車輪の下」という題名を聞いたときに、なぜか、
あぁ、あの本の本物、大人版なんだ。
という、閃きが(笑)大いなる勘違い。
で、読んで見たら、いっこうに銀の燭台を盗んだりしないし、少年時代ばっかりだし、ということで、期待したのと違っていた記憶が。
その期待したのと違っていたというのが、なんかつまんない印象として残っていたとしかいいようがないな。
ラストは確かに悲劇なんですが、それでも、いろいろなものを優しく楽しく書いているし、やっぱり美しいなぁと感じながら、しあわせな感じでいっぱいになりました。
「デミアン」までは、やっぱり、ヘルマン・ヘッセって、作者自身が思っていたり、読者に思わせたいと感じていたほど屈折していないようです。屈託がない気がします。あの「デミアン」の屈折したところも好きなんですけどね。
「デミアン」の感想でもキット書くと思いますが、「デミアン」書く時には、幼い頃から2つの世界があるのがわかっていたみたいなこと書いているけど、キミ、以前の作品にそんなこと書いてなかったよねというところも、好きです(笑)
このころのヘッセって、けっこう年寄りが好きで知ったかぶりな感じで書いているけれど、まあ、鋭いけれど見通し甘いところがあって、やっぱり、自分の理想を投影していたりと老いを書いていても若さを感じてしまう。
紡木 たくのマンガが、ほんのちょっと未来からなのに、ものすごく「追憶」の物語であるのと同じように、追憶がものすごく今のとなりある感じがいいなぁと思います。
ここからが、本格的にわたしの知っているヘルマン・ヘッセです。
「ペーター・カーメンツィント」は、ヘッセのいいところが全部出ているお話だと思います。
元々、新潮文庫版で、「春の嵐(ゲルトルート)」を読んで、「郷愁(ペーター・カーメンツィント)」を読んで、「デミアン(デーミアン)」に至るというこの順番も、ヘッセへの出会い方としてものすごく良かったのだと思います。
「春の嵐」が、めちゃくちゃおもしろくって、「郷愁」でほっこりして、「デミアン」で衝撃を受けるという。まあ、たしか「郷愁」と「デミアン」の間に「車輪の下」があったはずですが、これは、あんまりいい印象がないです。
まあ、なんというか、読んでいてものすごい多幸感に包まれておりました。
短編も、なんだろう若い作家のはずなのに、もうベテランみたいな感じが出ています。
次は、「車輪の下」で、ちょっと苦しそうですが、今なら、印象変わるかなとも思っています。