なねが恋ふれぞ 夢にみえける

内田善美,読書

星の時計のLiddell1

「空の色ににている」を読んでから、もう1回読み返そうと思っていた「星の時計のLiddell」全3巻を読みました。

以前読んだときは、ストーリーを追っていくことが出来ず、なんだか登場人物たちの話す難解なセリフのなかに大切な話が入っているのかなぁと思っていました。

さて、今回、「はたして理解できるのか?」という疑問をもちながら読み返したのですが、なんと、自分のなかでストーリーがスーッと通りました。
ただし、自分のなかで通っただけで、それが人のストーリーとあわせてみて、正しいのかどうかというのは、わかりませんが……。

えーと、映画で「ミツバチのささやき」というのがあります。
これは、とても好きな映画で、これまで3回ぐらい見ました。そして、いっつも、わたしはすごくおもしろいと思っているのに、途中で眠ってしまいます。
この映画、不思議なことに、ストーリーを語り出すと、わたしの語るストーリーと兄貴の語るストーリーと映画の紹介文のストーリーでは、全然、別の話になってしまいます。

これは、例えば、「『はみだしっ子』で、なんで、グレアムがあんな行動をとったか?」みたいな登場人物の心理に関して解釈が違うというようなものではなくて、本当に、受け取った物語のストーリーそのものが、全然、別個のものになっているというキツネにつままれたような経験です。

そして、多分、この物語も、受け取る側によって、ストーリーそのものが変わってしまうような微妙な部分があるような気がします。

まあ、「空の色ににている」を読んだときほど、これはわたしに向かってかかれている物語だと強く感じたわけではないのですが。
そのあたりは、この物語が再読であることなども、もしかすると関係しているかもしれません。

少女マンガは、何回も読んである瞬間スーッとストーリーが理解できる瞬間というのがあります。
これは、こっちの成長が、少女マンガに追いついたということなのだと思います。
1番最初にこの経験をしたのが、萩尾望都の「トーマの心臓」でした。
少女マンガには、物語のなかで語られていない(というか、成長しないと見えてこない)「ブランク」があって、しかも、その部分が物語の核心の部分とつながっていたりします。
「星の時計のLiddell」も、今回読んでみて、

「あぁ、以前は、ここがひっかかって理解できなかったんだろなぁ……」

という部分が、たくさんありました。

それから、ビックリしたのは、書かれていることの新しさです。
例えば、睡眠時無呼吸症候群なんてのは、最近では、日常的に聞くようになりましたが、この当時からあったんだ。
西洋人と日本人の言語における脳の使い方の違いも、わたしは、つい最近、ニュースで知ったばかりのことです。

書き始められたのが、1982年。今から、22年ほど前なんですよ。
ものすごく過去を指向していく物語のようでありながら、その目は、未来に向かっても開かれているのがわかります。

今回、わたしの持っている本を見直してみると、1987年10月25日 第8刷発行となっています。
まあ、発行されてすぐに買ったかどうかはわからないのですが、本自体は、今から、17年前に出されたようです。

前にここにこの本のことを書いたときは、「大学を卒業して大人になってから読んだはず」と書いていましたが、もしかすると、高校、大学ぐらいでこの本に出会っているのかも。
「好み」そのものは、もうこれぐらいの年齢で完成されていた気もしますが、このころなら、まだ理解できなかったのもわかる気がします。
なんというか、考え方そのものは、この頃にかなりできあがっているのですが、この後、自分の情報収集能力というのは、飛躍的にのびている気がします。
まあ、のびているのが、情緒面ではなく、そういった能力的な部分であるというのは、かなり情けないことではあります。

さて、物語は、「幽霊になった男の話をしよう思う」というナレーションからスタートします。
そして、語り部であるウラジミールが、街に戻ってきます。
街に戻った彼は、その街にすむ友人のヒューとお酒を飲み交わす。
ヒューは、まるで、ウラジミールが2年間もその街にいなかったことなど気にしていないように、まるできのうも出会ったかのように彼を受け入れる。

わたしを混乱させる罠は、しょっぱなから張ってある。
実は、ウラジミールは、とっても現実的な人間で、一方、ヒューは、夢想家です。

旅に生きる人間は夢想家。土地に落ち着いて暮らしている人間は現実的。
多分、そんな刷り込みが、以前読んだときは、この2人の性格を誤解させたのだと思います。

そうか、旅から帰ってきたのは、ヒューじゃなくて、ウラジミールだったのか。

今回、読んでみて、そういう印象の違いは、たくさんありました。

えっ、葉月ってヒューの彼女じゃなかったの?

とか。
ション・ピーターのピュアな部分というのは、何となくヒューのような主人公が持ってるべき資質だと思っていたのかもしれません。

そう。わたしは、単純な「物語とはこういうものだ」という常識に囚われすぎていてたようです。

でも、それらは、登場人物たちをとっても厚みのある生身の人間(というと少しニュアンスが違うかも。リアルな?これも違うか)にしています。

メインのヒューに向かう物語とは別に、登場人物は1人1人それぞれの物語ももっていて、それが、同じ重さで物語のなかで語られたりすることがあって、どっちに属する話なのかが混乱してわからなくなってしまっていたようです。

例えば、葉月は、恋人のジョン・ピーターには見せない(見せるときっと彼を傷つけてしまうと感じている)一面を現実主義者のウラジミールには見せたりします。
そういう話が、めちゃくちゃさりげなく入っていて、人物を浮き立たせています。

ヒューは、古い夢を見て、夢に惹かれています。
何度も、何度も繰り返される夢。夢のなかの彼は、とても、幸せそうです。

でも、現実の世界の彼が、不幸そうかというとそんなことは、全然ない。
わたしには、夢のなかの彼と同じように、自然体で幸せそうに見えます。
このあたりは、他の人と解釈が違うかも。

でも、ヒューには、「いつか自分が向こう側に行ってしまう」という予感があったのかもしれません。
その「予感」をウラジミールや、ヒューの母親は、「死の予感」と感じたのではないかと思います。
そして、葉月たちにとっては、それは、「未来への予感」。

だから、彼が、どうしても、「あちら側」に行かなければならないと思ったのは、「あちら側」の人間であるリデルが彼を呼んだからではないかと思うのです。

ヒューは、世界中にあるものをすべて等価に愛する。
これは、本当は、ヒューではなくて、「草迷宮・草空間」の主人公の草が、友だちに言われていた言葉だと思うのですが、多分、ヒューもその解釈で間違っていないと思います。

だから、ヴィとはつきあっていた(?)というもののそれは、

「彼女がヒューを必要としていた」

からであって、彼女が自立して、ヒューを必要としなくなった(?)とき別れを切り出されても、それほど取り乱したりしません。

もちろん、彼女のことを心配しているのですが、なんとなくそれは、誰にでも向けられる思いのような気がするのです。

そして、そんなヒューに対して、ウラジミールは、心理学など現実的なアプローチで、ヒューに迫ろうとしています。
そして、多分、そのアプローチでは、ヒューの見ているものを本当に理解することは出来ないのだと思います。

以前は、ウラジミールが何を調べているのかということも、何で調べているのかということも、ちっとも理解できていませんでした。
ウラジミールの趣味か?とか思っていたようです。
そして、ウラジミールは夢想家という誤解な刷り込みが、どんどんなされていくという。

あと、今回は、「相手が思いをかけているから、その人が夢の中にあらわれる」といセリフは、つい最近読んだ本の「手のとどかないものは、こちらが一方的に焦がれているものとは限らないよ。あの星は、おまえに思いを寄せているのさ」というセリフと自分のなかでは、ぴったりと重なって、ちょっとビックリしました。

こういうことがあると、今、運命的に(というとオーバーか)正しい時期にこの本を読み返したのだなぁと思います。