センチメントの季節6
どこか、大島 弓子をおもいだしすところもあったりします。
まぁ、大島 弓子がかかないところを、あえて、露骨にかいていたりするのですが、どこか、心の動き方や、物語のまとめかたで、そんな感じがします。
どこか、大島 弓子をおもいだしすところもあったりします。
まぁ、大島 弓子がかかないところを、あえて、露骨にかいていたりするのですが、どこか、心の動き方や、物語のまとめかたで、そんな感じがします。
「赤すいか黄すいか」は、確か、「綿の国星」のコミックスに載っていて、それではじめて読んだんです。
その当時は、まったく、さっぱり、意味がわからなかったです。
まぁ、今だって、意味がわかるとはいえないんですけどね。ただ、何が起こって、どうしてそういう状態なのかは、わかるようになってきました。
そして、大島 弓子、なんちゅう話を書くんだと……。
それは、「ダリアの帯」を読んだときにも、思った。
ある意味、少年と少女には、断絶があります。
その断絶ばっかりをかいたような作品がならんでいます。
でも、断絶がありながら、物語的な救いは、お互いに手をさしのべたところにある。
その結論の脈絡のなさと、それでいて、圧倒的な説得力。
多分、それが、大島 弓子のなかの少女の視点なのだと思います。
「綿の国星」と「バナナブレッドのプディング」が、両方詰まった1冊です。
こうやって、続けて読んでも、なんの違和感もないです。
「バナナブレッドのプディング」は、昔は、支離滅裂なお話だと思っていたのですが、今読んでみると、ものすごく論理的に物語が作られている感じがします。
これはもちろん、無意識のうちにかもしれないのですが。多分、大島 弓子は、どこか、自分で「納得」しないとかけないマンガ家なんだろうと思います。
点茶の話も、今、読んでみると、読み落としていたところに気づいて、おもしろい。
奥が深いです。
まるで大塚 英志の様な題名ではないですか。
でも、あんまり政治よりの話ではなかったです。というか、あんまり一貫した語りじゃない印象です。
大島 弓子論からはじまるのですが、論旨的には、
「昔の大島 弓子は良かったが、『綿の国星』以降の大島 弓子は、イマイチだ」
みたいな感じなのですが、それは、ただ単に、自分がそういう物語に感応できない年齢になっただけにしか見えないんですよ。
わたしは、今、大島 弓子がかいているマンガも、ものすごく深いと思います。
日常の風景の中から、彼女が、なにを切り取ってきているを考えると、
「少女漫画的な空間の緊張感を保ちきれない」
とは、とても書けないと思います。
オメエが、ゆるみきってるんだ!
まあでも、岡崎 京子が、大島 弓子の後継者だというのは、言われてみればたしかにそうです。今までは、そういう目で見たことはなかったから、ちょっと感動しました。
でも、「かわいい」がファシスト的であぶないとかきながら、自分は「純粋少女」のピュアなところをもっていると宣言する男は、やっぱり、ちょっと信用できないと思った1冊でした。
そういえば、大島 弓子だけ1が、強烈なキャラクターで物語をぐいぐい進めていくタイプのマンガ家じゃないんですよねぇ。
まあ、須和野 チビ猫や、グーグー、サバたちは、強烈なキャラクターで、これは、「綿の国星」が載っているこの巻の感想として書くことではないのかもしれないのですが。
長編が少ないからか?
いやいや、「たそがれは逢魔が時間」の邪夢だって、ものすごく印象に残っているキャラクターです。
なのに、なぜか、そんな風に書きたくなるものが大島 弓子にはあります。
そして、強烈なキャラクターのはずなのに、狂言回しの役割にまわっていることも多い気がします。
そこが、大島マンガで、ものすごく日常からはなれた状況、物語なのに、不思議とリアルさを感じさせられるところかもしれないと思います。