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成瀬は天下を取りに行く

舞台が滋賀県大津市で、西武で、解像度が高すぎ。多分、何年かたったら、この本の内容だったのか、自分のリアルな記憶だったのか、わからなくなる自信があります。
ということで、自分が普通に過ごしている場所が舞台になるというのは、おもしろいなぁと思いながら読んでいました。

いや、西武6階のバードパラダイスとか、懐かしすぎます。
屋上……だったかなに、小さな神社みたいなのがあったこととか、大階段から5階まで登って並んでガンプラ買いに行ったなぁとか。いや、確かに野球のユニフォームを着た女の子、テレビに映っていた気がするとか。
……すでに、「鳴瀬」の中のできごとだったか、リアル記憶だったのか、あやふやになってきていますな(笑)
でも、それぐらい、自然に物語が自分の身内にしみこんでいく感じがしました。

成瀬自身は、多分、アスペルガー傾向のある女の子なんだろうなぁと。まあでも、その自閉的な傾向は、あんまり悪い方にはいっていない。まあ、なんか、周りとあんまり上手くいっていない感じは多分、いろいろ感じているたろうけれど、それでも、ちゃんとしっかりと成長していっています。

それは、友だちの存在が大きいと思います。
女の子のアスペルガー症候群は、男の子のアスペルガー症候群に比べると、ちょっと生きやすいのかもしれません。
まあ、どんな傾向の子どもも、しあわせに(これは、イヤなことが1つもなくという意味ではないのですが)、すごせる世界になって欲しいです。

まあそれは、わたし自身も、ちょっとその傾向があるから、そう思うのかもしれませんが。

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ボディ・アンド・ソウル

最初、読み始めたときは、エッセイかこれ、読みにくいとか思っていました。そして、メチャクチャ嘘くさい。

それが、フィクションの世界に入った途端にものすごい説得力とリアルさを持って迫ってくる。
なにこの人。まるで嘘をつくために生まれてきたような。

ビビった。

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すくらっぷ・ブック3

「三角定規ぶらす1」収録。
これで、「12月の唯」、「春雨みら~じゅ」と「すくらっぷ・ブック」に続く全部のピースがそろった感じです。

まあ、ラブコメは、当時もあったと思うのですが、それを群像劇としてかいたというのは、やっぱり、今見てもけっこう新しいのではないかと思います。

そして、やたらとテンポがいいし、コメディの部分とウェットな部分とのバランスが、やたらいいのです。
このバランスは、あとあとリアルによっていくのですが(それでも、バランスはよいのですが)、この頃のものが1番好きです。

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英雄三国志2 覇者の命運

孔明登場。
そして、バッサバッサと敵をなぎ倒していきます。

うーん、どうしても、男が「凄い人」をかくとこうなっちゃうよねぇ(笑)。まあ、リアルマッチョではないけれど、それでも、力で相手を黙らせるみたいなところにどうしても、格好良さを感じる生き物なんだと思います。特に、昭和の男は。わたしも、違うとは言わない。

まあでも、「孔明のヨメ。」とか、「時の地平線」の孔明にも、別のかっこよさがありますよねぇ。
強さというものが、どういうものなかの考えさせられます。
悩まず振り向かないことが強さなのか、悩みながらも前に進んで行くことが強さなのか。
まあ、柴錬の孔明だって、悩まないわけではなくて、悩みを見せないだけだといえばそうなのかもしれませんが。
それを書かないでもわかれというのが、多分、昭和なんだろうなぁ。

まあ、ショックだったのは、三顧の礼の後、この物語の月英さんは、あっさり自決してしまっちゃうところでした。
それは、夫に後ろを振りか向かさないため妻の鏡みたいにかいてあって、孔明もあっさり受け入れて、ないわぁと思いました。
「三国志」の女の人の中では、月英さんと孫家の姫さんは、贔屓なのです。

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宇治の結び 下 源氏物語

荻原版「源氏物語・宇治十帖」である「宇治の結び」完結です。

いや、「宇治十帖」は、源氏の一生が終わった後、間におもろない「匂宮」、「紅梅」、「竹河」の3編が入ってしまっているために、メッチャ損をしていると思います。
いわゆる、匂宮三帖ですね。
あの3編が、しかも源氏が死んですぐのところに入っているために、
「やっぱり源氏が死んでしまったら、物語がおもしろくなくなった……」
って、言われてしまいます。
まあ、わたしも、そう思っていました。

でも実は、それに続く「宇治十帖」は、おもしろいです。読み直しのきっかけを与えてくれたのは、俵 万智の「愛する源氏物語」でした。
で、今回、「宇治十帖」を読んで、「宇治十帖」というのは、「源氏物語」というお話をさらに進化させているところがあると感じました。

ちょっと、前半と後半の違いを話したいので、源氏が生きているときの物語を「源氏物語」と書くことにしますね。

「源氏物語」は、各帖、ゆるやかな繋がりはあっても、基本的に1帖1話完結なお話です。めちゃくちゃ長い「若菜」はあるけれど、どっから読んでも読めるようになっています。まあ、玉鬘十帖という例外っぽい部分だけが、ちょっと長編小説している感じです。

一方、「宇治十帖」については、ほぼ完璧に長編の小説として連続しています。めちゃくちゃ、構成が考えられて書かれています。
特に、「浮舟」から後の「蜻蛉」、「手習い」、「夢浮橋」の流れは、凄いです。「蜻蛉」で、完全に浮舟の事後処理をして、多分、それまでの「源氏物語」だったらそこで終了していたと思うのです。
それが、「手習い」で、実は生きていましたってオイ。
それまでの「源氏物語」においては、まあ、出家が最大の苦しみから逃れる手段であり、出家が赦されなかった人も、死でなんとか苦しみの連鎖からぬけられるというのはあったと思います。
でも、そんなことでは救われない。出家してすら、「まだ若いし還俗できるよ」とか言われてしまう。
それは、物語のなかのリアルが、多分、現実に追いついた瞬間ではないかと思います。

出家しようが、どうしようが、世の中のしがらみはどうしても追いかけてくる。それは、出家した後も、俗世から離れることができない定子をみていたその時代の人たちのリアルな思いだったのではないでしょうか。
だから、「清少納言でございます」の最後の定子の最後の願い(というか空想)を最初読んだときに、あぁ、ものすごくそれはアリだなぁと思ったのでした。

多分、清少納言が「枕草子」のなかに定子の光を写したように、紫式部もまた「源氏物語」のなかに定子を写していたのかもしれない。
源氏物語の作者が、紫式部1人であっても、複数人いたとしても、やっぱり、強烈に、宮中の中心としての定子として、意識はされていたのだろうなぁと思います。

昔は、途中で終わっているように感じた「宇治十帖」ですが、今読むと、ここで終わりになっているのは、とても、意味あることだと思います。
この物語として開いていく終わり方も、「源氏物語」にはない、物語の進化です。