清少納言と申します6
いよいよ、なぎこも宮中で定子に仕えることに。ということで、「枕草子」らしくなってきました。
同じことが書かれていても、「はなとゆめ」の清少納言よりもこっちのなぎこの方が、ものすごくしっくりくるわと思ってしまう。
田辺聖子の「鬼の女房」の清少納言は、もうほんとうにかすかにしか覚えていないのですが、多分、こっちに近かった気がします。
今読んでいる荻原 規子の「宇治の結び」が終わったら、田辺 聖子の「むかし・あけぼの」を読む予定をしています。
楽しみ。
清少納言は、やっぱり「紫式部日記」の影響か、イヤなヤツの印象が強かったのです。
多分、高校の授業でも、そんな感じで習ったのかも。
でも、その印象がちょっと変わったのが、田辺聖子の「鬼の女房」の清少納言なんですよねぇ。
そこに書かれた旦那の惟光との関係。いや、最初は印象通りな感じなんだけれど。でも、なんというか気持ちのいい性格をしているんですよねぇ。陽性な感じ。そして、別れてもなんか、けっこうお互いのことを思う合っているというか仲良しな感じの2人の関係が、良かった。
あぁ、そうか。「はなとゆめ」に感じている違和感というのは、この陽性な部分が書かれていなかったからかというのが、ちょっと今、腑に落ちた。
で、その後、「枕草子」の成立の話を聞いて、価値観がひっくり返ってということが起こります。
たしかに、素敵なことだけを書いていこうという決意もあったと思うけれど、その根底には、陽性な部分があったと思います。姉御感といいかえてもいいかも。
で、なにかいいたいかというと、この田辺 聖子のスピリッツを継いでいるのが、この「清少納言と申します」ではないかと、今、突然、思ったのです。
たしかに、今はわかれてしまった惟光となぎこは、これから何が起ころうと仲良しであり、相手が危機の時には駆けつけるということを、わたしが今でも、確信しているのは、そして、今までたとえなぎこが男であろうと、惟光となぎこが仲良しであることを確信していたのは、多分、この田辺聖子版の清少納言の刷り込みのせいです。
でも、それが腑に落ちる形で、ここに示されていると思います。
違うかな。
えーと、PEACH-PITの「しゅごキャラ!」を読み終わったのが、2016で、もう8年も前になるのですね。
そういえば、同じ作者の「ローゼンメイデン」って、どうなったんだっけと思って、PEACH-PITのマンガを探していて見つけました。
ちょうど、冲方 丁の「はなとゆめ」とか、荻原 規子「源氏物語」のシリーズを読んでいて時期的にも平安時代が盛り上がっている(自分の中で)ということで読みました。
そして、その流れでなぜか、NHK大河ドラマ「光る君へ」は、見ていないという(笑)
いや、今大河はなぜか「八重の桜」を見ているんです。
ということで読んだのですが、、コレ、変なマンガのフェイスはしているけれど、めっちゃ良いマンガですねぇ。
わたしは、田辺 聖子さんのかく清少納言のイメージが強い(といいつつ、ほとんど覚えていないのですが、「鬼の女房」が好きなのです)のですが、あのイメージに近い。
まあ、いろいろとトンデモ設定はあるのですが、良いです。凄いこと考える人がいるなぁと思った1巻目。
背景を知ることによって、作品に対する見方がひっくり返ることがあります。
それは、「書かれたテキスト」だけを純粋に読み解くというのとは違って、作品の読まれ方としてはは邪道なのかもしれませんが、知ってしまうと後には戻れない「知」というのが、確かにあると思います。
「枕草子」も、そんな作品の1つです。
多分、放送大学の講義か何かで聞いたのだけと思います。一通り、清少納言の美意識などの話があった後、講義の1番最後で、「枕草子」が書かれた時期についての言及があったのです。
「枕草子」が書かれて成立したのは、1番華やかだった時代ではなくて、もう章子がいなくなった後の時代であったこと。
そして、その時代に書かれたにもかかわらず、没落についての恨み言や後悔は一切なく、ただただ、美しい時代について書いていること。
その解説がミステリーの謎解きのように、すっーと自分の中に入ってきて、今までの自分の知っている「枕草子」が、ひっくり返ってしまいました。
で、この「はなとゆめ」は、その解釈にそった清少納言の姿でした。
だから、「枕草子」の文章だけから感じる清少納言像や、これまでにあった清少納言像、もっといえば、ぼく自身が持っている清少納言のイメージと合っているかというと、微妙に違っています。
でも、その微妙な違いこそが、彼女自身の取り巻く状況と彼女自身が伝えたく表現しようとしたのギャップとして、物語に深みを覚えている感じがしました。
多分、知識を持つことの楽しみというのは、こういうものなのだと思います。
もちろん、知識無しの純粋な楽しみというのもあるのですが、知識を持っていることで、見えている景色が、何倍にもおもしろく感じる。
そこに咲いている花は、そのままでももちろん美しいけれど、「本来、そこには咲いていないはずの花が咲いている」ということを知ることで、新しい見方や、新しい物語が見えてきたりする。
そういえば、和歌もそういうもので、そのものだけでも楽しめるけれど、前提になる歌を知っていることで、風景が何重にも重なった表現を感じることができます。
それは、ひっそりとわかる人だけにあてた秘密のメッセージのようでもある。