すべては、教授の手のひらの上?

佐藤秀峰,読書

ブラックジャックによろしく8

医者が(というか、人が)、本当に人が死んでいくということにそこまで真剣に向き合うことが可能かどうかわたしは、疑問に思っています。

例えば家族であるならば、それは、1回だけむきあう死です。

でも、医者は、何回も何回も、それと向き合っていかなければなりません。

もちろん、今までの時間を一緒に生きていた家族と、病気になってから知り合った医者では、その人がいなくなったときの悲しみには、差があるだろうから、その悲しさを比べてみたりすることは出来ません。

でも、日常的に死と向き合っていくということは、どこかで、感情を殺していかなければ出来ない仕事のような気がします。

辻本さんの経過は、実は、「あきらめ」、「死をうけいれる」という普通の癌患者の経過のパターンと違っていなかったのではないでしょうか?

「その状態を『悟った』状態というのは、間違えではないか?」

という疑問には、未だに答えが出ていません。
もちろん、答えが出るわけでもないのですが……。

昔は、もし自分が死ぬとしたら、そのこりの時間を知っておきたいと思っていました。
でも、最近は、知らない方がいいのかなぁとも思っています。

父は昔、「告知してほしくない派」でしたが、最近、「告知という道もありかなぁ」と言っていました。

年とともに死に対する感じ方や、考え方も、かわっていくのだと思います。
だとすれば、あとは、告知されるにしろ、告知されないにしろ、周りの人間をどれだけ信頼していけるのかという世界になってしまうのかもしれません。