タブラの狼(素敵さんバージョン)
「タブラの狼」を遊ぼうと思うときに気になるところは、「殺す」とか、「リンチにかける」という言葉の部分です。
もちろん、遊びだと割り切って、やっていくのも1つの手だと思います。
大人同士なら、それでもいいと思います。
でも、子どもと遊ぶとなると……。もちろん、子どもたちは、「殺す」とか、そういう言葉は、大人以上にけっこう大好きで、使っているうちにエキサイトしてしまうのですが、だからこそ、なんだかなぁ~ということがあります。
この「人狼」というのは、大元は伝統的なゲームだそうで、その国では、子どもたちも遊んでいるようです。
また、「Table Games in the World」のShort Newsでも、
人狼は少年たちが慣れた調子で仕切っていた
と書かれていますから、それほど気にしなくてもいいのかもしれませんが……。
でも、気になっていたんですよ。
楽しいゲームなので、なんとか設定を変えて遊んでみたいなぁという思いはありました。
今回、素敵さんの設定を使えば、そういった言葉を使わない「人狼」ができるのではないかということで、試させてもらいました。
トランプのカードを使うのは、「素敵さんのウィンク」と一緒です。
でも、今回は、素敵さんが2人います。
「ハートのA」のカードの人と「スペードのA」のカードの人は、素敵さんになります。人狼です。
それから、カードに「ハートのQ」を入れます。
このカードをうけとった人は、「夢見さん」。夢のお告げを聞くことができます。予言者です。
ゲームは、夜の部と昼の部が、繰り返されていきます。
夜の部では、みんな目を閉じて眠ります。
司会者の合図で、素敵さんだけが目を開きます。
素敵さんは、夜の間に素敵な魅力を振りまいて、プレーヤーのうち1人の人をメロメロにしてしまいます(笑)
メロメロにされたプレーヤーは、もうメロメロで話すこともできなくなってしまいます。
メロメロにするプレーヤーが決まったら、素敵さんは、目を閉じます。
次に司会者の合図で、夢見さんが目を開けます。
夢見さんは、プレーヤー1人を指さします。
司会者は、そのプレーヤーが、素敵さんか、一般の人かを夢見さんにジェスチャーで教えます。
1人のプレーヤーの素性がわかったら、夢見さんは、目を閉じます。朝が来て、みんな目を開けます。
素敵さんに、メロメロにさりちゃった人がいます。
あぁ、この村には、あの素敵な素敵さんがかくれているようです。
いったい誰が、素敵さんなんでしょう?
みんなは、素敵さんにあいたくて、あいたくて、いったいだれが素敵さんなのか、話し合いをします。
話し合いがおわれば、だれが素敵さんだと思うのか、多数決を取ります。
1番大勢の人から、「素敵さん」だと疑われた人は、自分の正体をあかして、ゲームから降りなければなりません。
こうして、夜と昼を続けていって、素敵さんの数が他のプレーヤーの数と同じになれば素敵さんの勝ち。
それまでに、2人の素敵さんの正体をあばけば、他のプレーヤーの勝ちになります。
えーと、何のひねりもなく、「人狼」そのままですな(笑)
ちょっと、苦しいところもあるし……。
で、遊んでみたのですが、30人は、やっぱりちょっと多いかな。
素敵さんが、勝つことは、なかったです。
うーん、1番問題点は、最初のうちはちゃんと目をつぶっているのですが、だんだん人数が少なくなってきて、自分があぶなくドキドキしてくると、ついつい薄目をあけている子どもが多いということかな。
そして、
「理由はないけど……」
と、素敵さんを見たまま告発する人が、いました。
うーむ。2年生は、そんなもんか。
でも、
「えー、全然、わからへん」
とか、見当違いの子を、
「きっとこの子やと思う」
と主張している子もいて、本当は、勝っても負けても、そんな子たちが、1番このゲームを楽しんでいたんだろうなぁと思います。
やってみて思ったのは、「人狼」、子どもたちにもって遊ばせたいなということでした。
けっこう、これって、子どもを鍛える遊びのような気がします。
何回も数をこなせば、自分が理不尽にゲームから除外される事ってあるじゃないですか。
このゲームは、そういうことを楽しめるようになるんじゃないかと思います。
で、ウワサとか、世間の意見の動向が、まぁ、おおよそいい加減なものだということ、自分の持っている意見も、けっこうあやふやな考えの元になりたっているということが、わかるんじゃないかなぁと思います。
わたしも、もちろんそうなのですが、問題ないようにということで、どうしても、子どもたちにきまじめなもの、きまじめなものを与えたり、求めたりします。
でも、本当は、耐えられるぐらいの簡単なイヤなこともいっぱい経験してみて、鍛えられることも必要なのかなぁと思います。
昔は、遊びがそういうものを担っていて、遊びのなかに軽いイジワルだとか、仲間はずれのシステムが入っていました。
それは、全員平等な軽いイジワルとか、仲間はずれで、それを経験することによって、子どもたちは、現実のもっと強い辛さを乗り越える強さを持ったような気がします。
でも、「イジワルだめ。仲間はずれだめ」というあまりにも極端に漂白されて、遊びが伝承されなくなったために、そういった部分が、弱くなっている気がします。
もちろん、そのシステムそのものが、本当に子どもたちが耐えられるぐらい軽い負荷で、しかも、平等であるということは、とても大切なことであると思います。
なんか、1年前も、似たようなことを言っていた気がしますが……。
ということで、めずらしく30人もの子どもをいっぺんに相手したときのことでした。