妖怪談義 新訂
柳田 国男と南方 熊楠の論争。
ものすごーく、枝葉のところで論争はしているけど、実は言っていることは同じことではないのか?なんか、同じ現象の見方だけが違うというか、ただ単に言葉の定義の問題ではと思えてきて楽しい。
この手のお話って、放っておくとすぐに変化して、消えていってしまうので、時代、時代に定点観測する人が必要なんだなぁと思います。
今、インスピレーションがピピッと来て、荒俣 宏の「帝都物語」という題名は、この「遠野物語」からきているのではないかと気づきました。
違うかな?
「遠野物語」を読むのは、2回目です。
NHKで、「100分で名著」という番組があって、これが最近のお気に入りなんですが、それで取り上げられているのを見て、また読みたくなったのです。
言葉的には、若干読みにくいのですが、読むたびにいろいろ想像が膨らみます。
こういう話が伝わっていくシステムがどんどん失われていくのは、とても悲しいことだと思います。
でも、今のネットの広がりは、「お話」がテキストとして半永久的に残っていくので、もしかしたら、ぼくらは、新しい「遠野物語」的な世界を獲得していけるのかもとも思います。
拾遺集は、今回はじめて読みましたが、褌を盗む話とか、今のマンガにもありそうなホラっぽい話が楽しかったです。
たしかに、「神隠し」という名前のアジールがあれば、生きていくのは少しは楽そうです。
でも、本当は、「アジール」そのものが優しいわけではなく、「アジール」を認めて受け入れる此岸そのものが、優しいのですね。
だから、「神隠し」を認める世界を作るには、やっぱり、こっちの世界そのものの考え方、受け入れ方を変えていかないといけなくなります。
ところで、わたしは宮崎アニメは「千と千尋の神隠し」と「トトロ」は、見ていません。
なぜか、名作と呼ばれるものだけ見ていないという。
どういう巡り合わせだろう?