砂漠をわたる風 前編 Pシリーズ7 砂漠シリーズ3
逃亡劇。
Pシリーズって、緩やかな歴史はあるのだけれど、まあ、あらすじだけおっていけば、まあ、シチュエーションは違うけれど全部同じ話だといってもいいのだと思います。
でも、飽きない。これはやっぱり、細部が丁寧にかかれているからというのがあると思います。
大きな筋として、P迫害があるけれど、立場や考え方などは、それぞれ違う。そこが、魅力的です。
さて、この先のお話が、「火垂るの墓」みたいになっていくのか、というのも興味深い。
すごいマンガがあるよという話は聞いていて、まあ、購入はしていたのですが、聾唖、いじめと、なかなか重たいテーマだなぁということで未読でした。
今回、アニメ映画になったので見てきました。
映画、やっぱり重たかったけれど凄い良かったです。でも、もし映画館で見たのでなかったら、けっこう途中でめげて見なくなっていたかもとも思ってしまいます。
なんなんだろうなぁこの感じは。多分、「火垂るの墓」なんかと同じで、どこか、自分の罪の意識とかトゲに引っかかるところがあるからかもしれません。まあ、こっちはそれでも、なんとなく希望がある感じで終わって、後味はすごい爽やかなんですけどね。
映画は、メチャクチャよくまとまっていて、本当に必要なところだけを上手に詰め込んだ感じです。手話とかのシーンは、ちゃんと動いているアニメの方が、多分この話を進めるにあたっては優れていると思います。
ただ、深く見たり、内面を掘り下げていくのは、原作マンガの方がいいなぁと今回読んで感じました。
ちょっとずつ、ちょっとずつ、みんなから離れていく感じとか、西宮さん転校までの時間の経過とかは、マンガの長さがあってのものです。
この年齢の子に、ダメなことがなぜダメなのかを伝えるのは、とても難しい。言葉で、根気よく伝えていくというのは、とても言うのは簡単だけれども。伝わる前から、そのダメな行為そのものは、無理矢理にでも止めないといけなかったりもするし。
映画の感想なんかを見ていると、担任がクソだ、川井さん怖いとか、植野さんや、将也は悪くないみたいな感想が出てたりしているけど、まあそれは、自分のなかの罪を見つめないで、人の罪を告発していたら楽だろうレベルの話だと思う。そういいたくなるのは、自分が、植野さんや、将也であるからかもしれない。(そして、ぼくがこうかくのは、自分が担任や川井さんであるからかもしれない)。
なんというか、生きているだけでねぇ、なんか人にひどいことしているっていうことはあるし、それは多分許されないんだと思います。
それでも、西宮さんが恋をしたのは、将也の真っ直ぐなところ。でも、それが唯一の正解ではない。そういうこともあるかもしれないということで、なにが正しいか、なにが正しくないかは、180度変わってしまうこともある。
映画で気になっていたのは、西宮さんは恋をしていたけど、将也の中にあるのは贖罪の意識だけなんじゃ無いかということ。そうすると、関係としては、いびつな感じだなぁと思ったりしています。まあ、映画が終わっても、登場人物たちの人生は続いていくので、その中で、関係性も変わっていくのだと思うけれど。
そのあたりが、丁寧にかかれた原作でどうなっているのか気になります。
不思議だ。
「トトロ」で語られる言葉は、全部いらない言葉に聞こえるのに、「火垂るの墓」で語られる言葉は、1つ1つが重くて、何かを伝えようとしていると感じられる。
どっちの作品が、優れているとは言えないと思うのだけど、「トトロ」は語られることを拒否する物語で、「火垂る」は語りを誘発する物語であるようだ。
そこが、宮崎 駿と高畑 勲という2人の天才の、違いなのかも。
信用できないと思っている妹尾河童の語る野坂のエピソードさえ、ちゃんと聞こえてくる。
そして、野坂本人にすら、語らせる力が、この映画にはあったのだろう。
そして、そこまでの作品であるにもかかわらず、監督の高畑自身の欲望は、深く深く、物語のなかに、原作の中に隠されている。
大塚さんの話は、楽しいのだけども、最近のいつものように、ちょっと自分の政治的な思想に寄せて考えすぎだ。
自分の政治的な主張を強化するためだけに「作品」があるのだとしたら、それはつまんないことだと思う。
それから、多くが宮崎との対比で高畑が作った的なことを書いているけれど、どうも、鈴木 敏夫の話なんかを聞いていると、相手の作品を気にしているのは宮崎の方で、もし本当に対比させて作ったのだとすれば、それは、「火垂る」に対比させて「トトロ」が作られているということだと思う。
おそらく、それ以前の宮崎作品への高畑からのメッセージというのはあると思うけど、多分、「トトロ」の表現の細部を気にして「火垂る」が作られた訳ではないだろう。
もちろん、この題材を選ぶ時点で、「トトロ」との対比ということは意識されただろうし、宮崎が自分のいなところで、なにをどんな風にかくのか、ある程度は、高畑は知っていたし想像しただろうけども。
多分、高畑からの直接のメッセージは、「天空の城ラピュタ」と「かぐや姫の物語」が対応しているみたいに、ものすごく長いスパンのもののような気がします。
歴史に残る映画です。
見たら、トラウマも残るけど。
けど、その棘を心に突き立てたまま、ぼくたちは活きていく。
原作者・野坂 昭如が、アニメだと思ってバカにして(?)見たら、自分が住んでいた町並みとそっくりの家が出てきて、自分の記憶している通りの方角からB29が飛んできて空襲をして、そんなこと本に書いた覚えもなければ、今までだれにも話したことがなかったのにと驚いて、続く物語で、映画館(試写)に居たたまれなくなって、外に出た。みたいな話を聞いたことがあります。
原作自体は、淡々とした話で「こうとしか書けなかった」と言っていたり、自分の子どもが学校で、
「この物語を書いたときの作者の気持ちはどうだったのか?」
という問題が出たので、直接、作者である父親に聞いたら、
「あんなの書きたくなかったけど、原稿取りがまっていて、金が欲しかったから書いたんだ」
的なことを言ったとか。
「書きたくなかった」り淡々としか書けなかったというのは、それだけ作者のなかで、この話が昇華しきれていないということなんだと思います。
そして、その「痛い」部分を、容赦なくえぐってくる映画が、この「火垂るの墓」ですよねぇ。
原作者がかくしたことすら露わにしてしまうほど原作に即した映画。
これ、トトロと同時上演っていうのが、凄いですよねぇ。
子どもの心をわしづかみして、思いっきり突き放す。
多分、こっちを先に見た子どもは、トトロまでたどりつかなったのではないかと思います。
普通、途中で映画館でるわ。
でも、これは悪口ではなくて、それぐらい破壊力が強い映画だということです。
そして、お兄ちゃんは、まだ少年の姿のまま成仏できずにウロウロしている。
それは、原作者の野坂 昭如が生き残ったということであるし、罪が消えていないということもでもあります。そして、ぼくらのなかの罪の意識も、消えることがない。