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空の色ににている

多分、わたしが気に入るだろうということで、貸してもらったマンガです。

内田善美のマンガは、以前に何冊か読んでいて、特に市松人形の「ねこ」のでで来る「草迷宮・草空間」というお話は、お気に入りで何回も読んでいました。

その後、りぼんマスコットコミックスから出ている「星くず色の船」と「秋の終わりのピアニシモ」なんかを読みました。
これは、すごく密度の濃い絵を描く人なので、新書版コミックには向かないなぁというぐらいの感想しか、もっていなかっのです。

そして、「星の時計のLiddell」というマンガを読んだわけです。
多分、この「星の時計のLiddell」は、大学を卒業して大人になってから読んだはずのマンガです。

わたしは、幼少の頃から、マンガ読みをしておりますので、少年マンガだろうが、少女マンガだろうが、自分に理解できないマンガはないだろうと自負しておりました。
もちろん、「はみだしっ子」なんかは、今読んでみると、どう考えても当時の理解は間違えだったということが判明しているマンガもあるのですが、それでも、その年齢なりの理解はできるだろうと信じていました。

でも、「星の時計のLiddell」は、そんなわたしにとっては、めずらしく理解できないマンガだったのです。しかも、大人なのに(笑)
「理解できない」というと、いろいろな意味にとれてしまうのですが…。
他のマンガでも、「何でこんなことするんやー」という理解できない登場人物というのはいたりするのですが、そういうこととは違うのですよ。

わたし、この全3巻もあるマンガのストーリーを全然、追いかけられなかったのです。
で、その当時のわたしの理解が、ストーリーは、どうでもいいことを追いかけていて、実は、登場人物同士の会話のなかに、なんか本当のことが隠れているのかなぁ……。というもの。
これが、あっているのかどうかも、わかりません。
↑ なんせ、ストーリーが全然わかっていないから。

まあ、オーバーなお話ですが、このストーリーが追いかけられないというのは、けっこうトラウマになっていて、そのあと内田善美のマンガというのは、全然、読んでなかったのです。
似たような現象は、こなみ詔子の「タイルの水」を読んだときにもなりました。

ということで、「空の色ににている」も、辛そうだったらちょっとずつ読もうとかいうけっこう消極的な態度で読み出したわけです。
ちょっとずつ読もうと思っていたから、時間も、けっこう夜遅く。

気に入るというか……これは、どっぷりはまってしまいました。
というか、はまりこみすぎて、混乱して、なんというか感想というか、感情というか、そういうものが、グルグルとまわった状態になって、その夜は、眠れなくなってしまいました。
これは、一気読みしてしまうマンガではないですね。

最近読み始めた「彼氏彼女の事情」とかも、すごくおもしろいて先にを読みたくなるマンガなのですが、「空の色ににている」は、そういうのとも、ちょっと別格なマンガです。

感想を書こうとしているのですが、ひとつは、まだ興奮と混乱がおさまらないということもあり、もうひとつは、なんだかこの話のことを語るのは、あまりにも自分のプライベートなことを話すような気がするのです。
なんというか、この話は、わたしに向けてかかれた話だ、という印象がとても強く感じられるのです。

もちろん、わたしがこの主人公たちのような柔軟で、繊細な心を持っているという意味でも、この主人公たちに似ていると思っているわけでもないのですが……。

それでも、これは、自分にむけられたメッセージだと感じてしまうのは、なんでなんだろう?

実は、冬城の失踪の真相(?)は、天然系の2人が思っているような理由ではない気が、わたしにはします。
でも、なぜか、いつものように、「あれは実はこうだったんだとわたしは思うよ」というように、自分の考えを出していく気がしないのです。

なんか、2人がそう思っているのなら、それでもいいのかなぁ。
そうやって、「世界」は出来ていくのかなぁ。
と、そんなふうに感じます。
この2人みたいに、世界を感じ取れるようになりたいと思っていて、そうなれない自分のことも理解しています。

ただ、「そうなれない自分」を否定的に見るのではなくて、そんな自分すらこのお話に肯定されているような気がします。

なかなか、書きながらもどかしいです。言葉で伝えにくいので、これは、この文章は、思っていることの輪郭だけというか、周辺だけをグルグルまわっている感じがします。

ただ、1つ言えることは、このお話に出会えてとってもよかったということです。
そして、多分、この年齢の時に、このタイミングで出会うことがなかったら、これほど、心を揺さぶられることもなかったのだと思います。

むかしは、「作品」というもう評価の決まったものがあって、自分がそれにアクセスしたときに、それがわかるのかと思っていたのですが(少なくとも、自分のなかの評価というのはそれほど年とともにかわるものではないと思っていたのですが)、実は、そうではないようです。
どんな精神状態だったか?それまでにどんなお話と出会ってきたのか?どんなきっかけで、そのお話を読むようになったのか?買ったか?借りたのか?だれに借りたのか?
その時々の自分の状態によって、多分、少しずつ、ときには大きく、そのお話に対する自分の想いというのは、かわってくるです。

そして、そのお話をうけいれる1番ベストな状態なときに、ぴったりとはまる物語を読むのは、とても幸福なことです。

さて、1度、以前は挫折した「星の時計のLiddell」を読み返してみよう。