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菜穂子・楡の家

映画「風立ちぬ」関連本として読みました(笑)

菜穂子さんは、気が強い感じの女の人。でも、なんか押しはめちゃくちゃ弱そうという……。
映画の「風立ちぬ」のイメージよりも、流されちゃう感じです。

印象が「風立ちぬ」ほど強くないです。
それは、一人称でないからというのもあるのかも。

あんまり、物語としては大きなうねりとかはなくて、淡々と人の心の中でなにかが動いているようなお話でした。

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風立ちぬ・美しい村

えーと、映画の「風立ちぬ」見てきました。
見た、最初の感想は、

「なんじゃこりゃ?」

でした。

その日書いた感想のメモは、こんなことが書いてあります。

「宮崎 駿の自分の人生、全肯定物語?なっとくいかん」

「なにかを作るこということはあきらかに呪い。何もかもなげだしてでも『作る』しか選択肢なし?」

「たとえば、菜穂子が途中で嫌になって、二郎をののしって退場しても、二郎の人生自体はかわらないんじゃ…」

「2人の姿を美しいとは思えるし、泣ける。1もしかして、それに違和感を感じている自分がイノセントではないのかもしるれない…」

「映画のパンフレットで、宮崎 駿がかいているように、これは二郎という個人の物語であって、菜穂子の物語であったり、2人の物語ではない」

「二郎は、周りがどうであれ、恋人がどうあれ、ただ自分の夢を追い続けていく。ひでえ。そして、そうやってつくったものが、人にとって善だろうが悪だろうが、ひたすら、思いついたままに邁進する」

「そして、そんなやつばからなら、いつかこの世界は核で廃墟になる」

「子どもにおかし。偽善の否定。矛盾した存在。やらずにおけない?」

「妄想、妄執と、美しい夢は、どこが違う?」

「善でも悪でもないことを賛美してもいいのか?でも、それは非難されるべきことか?」

「夢を追う人とアル中はどうちがう?死ぬまで自分中心にやっていくだけだろう?」

われながら、大混乱ですな。

映画としてのエンターテインメントな楽しさはないです。

その証拠に、小学生低学年ぐらいの女の子が、映画の途中で退場していました。すくなくとも、子ども向けの映画ではない。
でも、なにか心に残る映画だ。
そして、ものすごくいろいろなところが、引っかかる感じがする。

それは、あんまりにも二郎にとって都合のいい菜穂子の存在。

考えて出てきた感想は、「要するに、天才はなにをしても、周りを巻き込んでメチャクチャなことをしても許されると?そう、天才・宮崎 駿は、いっていると?」そういう反発。

でも、その反発の中にも、なんかモヤモヤしたものが残っている。反発しながらも、なんか、それだけではないものがある。
なんだろう?映画の中の二郎は、本当に穏やかな人なんだけれど、メチャクチャ自分勝手な人でもある。自分のやりたいことしか見えていない。

初めて会ったときから好きでした的なことは、あきらかに口からでまかせだし、その後、菜穂子の命をすり減らしたこともそうだし、本当に、あの後、1回も菜穂子のお見舞いなんて行っていないんだろうなぁと思います。
そして、それは多分、宮崎 駿なら、もっと上手にいい人ぽく誤魔化せたはず。

なんで、そうしなかったんだろう?
多分、わざとだ。

他の人がどう見たのか、人の感想がこんなに気になった映画ってあんまりない。
そして、多分、この気分というのも、わざとそうなるように作ってある気がしたのです。

で、いろいろなブログの感想を見たりしていたのですが、小説を書いていたり、アニメをつくっていたりと、ものをつくっている人は、大絶賛していることが多いですね。
絶賛でなくて、俺にはあんな生き方はできない。でも、あれが理想なんだという人もいた。
何か、必死になって産みだしていく人にとっては、確かに理想的なお話なのかも。

そう考えると、自分がなんだか、嫌な気分になったのは、そういうものを作る仕事をしていないことに対するコンプレックスもあったのかもしれない。
でも、ものづくりのすごさだけをかくのなら、菜穂子、要らないよね。
多分、あの自主勉強会の若い活気だけでも、プロジェクトX的な感動的な映画はできたと思う。

なんで、菜穂子がでてきて、なんで、菜穂子にあんなひどい仕打ちをしなければならないのか。しかも、二郎自身は、ちょっとは感じているかもしれないけれど、それでも、映画を見たぼくらほどには罪の意識を感じていない。

はじめみたときは、この二郎という天才(宮崎 駿という天才)を、全肯定してほしいのか?
お前は、それ以外の生き方を否定するのか??

みたいな感じで反発したのですが、多分、これ、そうではない。

これは、ひどいやつだけれど、こうとしか生きられないそういう姿を書いた物語なのではないか?
そう思ったとき、フッと腑に落ちるものがありました。

そう、ここで二郎は、否定も肯定も実はされていない。ただ、そうとしか生きられない存在としてかかれている。
多分、ぼくらが、天才として生きられないのと同じように、二郎は、仕事には熱心に、でも女の子に対してはとても気になりながらいい加減にしか接することができない。
彼が肯定も否定もされなければ、ぼくらだって否定も肯定もされていない。

彼は、正直に生きた。それは、多分、そうとしか生きられなかっただけ。そういうことなんだと思います。

そう気づいてみると、もう1回見たとき、いろんな枷が外れて見ることができるかもしれない。もう1回見てみたいです。映画館じゃなくていいから。

もしかして、普通に感動できる人って、そういうグルグルまわらずに純粋なのかもしれないと思います。
まあでも、ぼくは、こうとしか生きられなくて、グルグルまわるんだろうなぁ。
そんな自分がいやになることもあるけれど、絶望しないならいいのかもしれません。

ということで、映画を見た後、堀 辰雄の「風立ちぬ」と「菜穂子」も読んでみようということで、ついでに、堀越 二郎の本も読んでみようということで購入。
まんまと、のせられていますね。

いや、「風立ちぬ」は、昔読んだことがあるはずなのですが、たしか、映画とはまったく逆の話だったよなぁと確かめたくなって。

そして、この本読んでみましたが、記憶通り、映画とはまったく逆の話でした。死ぬまで恋人のそばについてあげる話。
でも、これ読みながら、もし堀 辰雄が、映画「風立ちぬ」を見たら、怒るかな?とも考えてみた。
多分、怒らないのではないかなと思った。
それは、やっぱり、堀 辰雄が、なにかをつくる人だから。
まったく別の物語のなかに、なにかをつくるということの怖さというか、狂気みたいなものは、あるような気がする。

この解釈が正しいのかどうかわからないです。
かなり、映画「風立ちぬ」に引っ張られていることは確かです。

でも、そんな風にひっかかって、誰かに話したくなる映画というのは、多分、名作です。
本屋で堀 辰雄「風立ちぬ」がベストセラーに入っているんですよ。
多分、ここに堀越 二郎が出てくる映画の原作本だと思って購入している人は、少ないと思います。きっと、わたしと同じ様に映画を見て引っかかった人もいっぱいいたのかなぁとか思って、少し不思議な感じがします。

そんな人たちの感想もいっぱい聞きたい。そんな映画でした。

  1. 涙腺は緩い方です []