グーグーだって猫である6
グーグーの最期。
なんか、読者のわたしから出てくる言葉も、
「ありがとう」
だったりします。
ありがとう、グーグー。
おやすみ、グーグー。
グーグーの最期。
なんか、読者のわたしから出てくる言葉も、
「ありがとう」
だったりします。
ありがとう、グーグー。
おやすみ、グーグー。
ネコのいる日常の風景。素敵だ。
日だまりの中、一緒に暮らせれば、こんなシアワセなことはない。
絵本というか、詩というか。
ミニミニなちびねこの日々の冒険です。
このちびねこは、須和野ちびねことは、違うちびねこだと思っていたのですが、途中で、須和野さんという名前がでてきましたね。
でも、時夫の姿がないので、これは、やっぱり別の須和野さんのところの別のちびねこなんだと思います。
まあ、同じでもいいんですけどね。
「グーグーだって猫である」の擬人化していないネコたちと、ちびねこたちは、この人の中でどんな風につながっているんだろう?
どっても、リアルな世界としてとらえている気がします。
大島 弓子の目線って、すごい。希有な人です。
ネコとか、子どもに振り向いてもらったときのうれしさは、恋愛によく似ているなぁと、ちょっと思った。
反応が返ってこないときの傷つき度は、恋愛の方が高い気もしますが、振り向いてもらったときのうれしさは、すごく感じます。
あぁ、どんどんネコを拾ってくる大島 弓子は、「はみだしっ子」で、クークーを失った後のサーニンのようだなぁと。
この心理は、でも、なんとなくわかる気がする。
贖罪のようであり、心の隙間を埋めるようであり、でも、そういうものと、まったく別のもののようでもあり。