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こわれた腕環 ゲド戦記2

うーん、やっぱり、このゆっくりなスピードと、ワンアイデアで物語り全体をもたせようとする感じが……。
世界の名作、おもしろいか、コレ?

テナーのおかれた状況、世界を見せるという意味で、物語の前半のアルハの話は必要であるのはわかるのですが、でも、あそこまで執拗である必要があるのか?
執拗であってもいいのですが、単調であるというのは、どうか?

まぁ、ある意味、死後の世界なんだから単調なのかもしれませんが、それが、計算された単調さとは思えないんですよねぇ。
やっぱり、あそこで、あれだけ説明しなければならないのは、この物語が書かれた「時代」のせいなのかなぁ。
この物語が、「時代」の最先端すぎて、今読むと「原型」みたいに見えてしまうのかもしれません。

ゲドがでてきてからは、それなりにおもしろいのです。逆にいえば、イニシアティブを全部、ゲドがとっているように感じられるのです。愚かで無知な女の子を、賢い男が導く話みたいな。
でも、それは、本当にそうなのかなぁ。

なんというか例えば、ゲドは、闇とか影を敵と見ているけれど、実は、けっしてそうではないのではないかと、現代人のわたしは思っています。
もしかすると、アルハの信仰の方が、正しいのではないか。少なくとも、それは、戦う相手ではあっても、打ち倒せるものではないのではないか。
打ち倒すのではなくて、共存していくべき存在ではないのか?もっと、生きていくうえで大切なもの何ではないかと思います。
光が強いところには、濃い影がさす。そのことに、なにか意味があるのではないかと思ったりするのです。

うーん、どうなんだろう。これって、恋愛小説なんだろうか?ゲドとテナーは、くっつくのだろうか?
なんか、ゲドのテナーの美しさに惹かれた、テナーはゲドの賢さに惹かれたみたいな、惹かれたところの歪さが気になる。テナーの美しや、純粋さは、アルハとしての残酷さをも含んでいるものだと思うので。そうするとそれは、「影」を戦い駆逐するものと考えるゲドにとっては、本質的な美しさではなくて、「幼さ」としていつか否定される、愛玩的なものでしかなく感じてしまいます。

恋愛において、男が師で、女が弟子みたいな、それが一方的な関係はやだな。
こわれた腕環は1つに。それは、1つになったのであって、どちらかがどちらかに吸収されたのではないと思いたいですね。

アーシュラ・K・ル・グウィン,Ursula K. Le Guin,
清水 真砂子
岩波書店
発売日:2006-04-07