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おもいでぽろぽろ シネマ・コミック6

むかし、アニメージュコミックスのワイド版で出ていた原作は、読んだ記憶があるような。
でも、あんまり面白かったという印象はなく、今は、本棚に残っていませんねぇ。

それでも、こんな感じの話ではなかったような気がするのですが……。
高畑 勲、こんな映画の作り方もするのか。原作から、かなり思い切って広げていますよねぇ。特に、大人パートって、完全に映画だけのものだと思います。子どもパートが、原作のエピソードから作られているのかどうかまったく記憶にないのですが。
そこが、原作どおりだとしたら、それはそれで、凄いなあと思います。

なんていうか、ペラペラと流し読みしているときは、まったく感じなかったのに、腰を落ち着けて読み始めると、凄い話なんですよ。まったく、エピソードとしてはツキバキっぽい話が連続で続いているみたいな感じなのに、すっと1本筋が通っている。
これは、実際に映像で見てみないといけないと感じました。

映像見るのが後かよ。先に見ろというのはあると思いますが。

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映画を作りながら考えたこと 「ホルス」から「ゴーシュ」まで

萩尾 望都がエッセイだか、対談だかで語っていたことで、

「あらゆる層、出来るだけいろいろな層の人に伝わるようにかいている」

という言葉があるのですが、それが、より明確に、具体的に、「赤毛のアン」のところで語られていて、物語を作って人に伝えるということは、どういうことなのか、ものすごく勉強になります。

リアルであることと、リアルに感じることの違いみたいなことで、文化が違えば、リアルに感じることは変化してくる。そして、人はリアルであることよりもリアルに感じることの方が、より心情をのせて深く考えられたり、受け止めたりする。
そのために、リアルではない芝居をもっていくというのは、物語としてとても正しいのだなぁというような話です。
(↑ まあ、わたしの解釈なので、ちょっと違うかも)

真面目に、誠実に、物語に向き合っているということがわかります。

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火垂るの墓 ジブリの教科書4

不思議だ。
「トトロ」で語られる言葉は、全部いらない言葉に聞こえるのに、「火垂るの墓」で語られる言葉は、1つ1つが重くて、何かを伝えようとしていると感じられる。

どっちの作品が、優れているとは言えないと思うのだけど、「トトロ」は語られることを拒否する物語で、「火垂る」は語りを誘発する物語であるようだ。

そこが、宮崎 駿と高畑 勲という2人の天才の、違いなのかも。

信用できないと思っている妹尾河童の語る野坂のエピソードさえ、ちゃんと聞こえてくる。
そして、野坂本人にすら、語らせる力が、この映画にはあったのだろう。

そして、そこまでの作品であるにもかかわらず、監督の高畑自身の欲望は、深く深く、物語のなかに、原作の中に隠されている。

大塚さんの話は、楽しいのだけども、最近のいつものように、ちょっと自分の政治的な思想に寄せて考えすぎだ。
自分の政治的な主張を強化するためだけに「作品」があるのだとしたら、それはつまんないことだと思う。
それから、多くが宮崎との対比で高畑が作った的なことを書いているけれど、どうも、鈴木 敏夫の話なんかを聞いていると、相手の作品を気にしているのは宮崎の方で、もし本当に対比させて作ったのだとすれば、それは、「火垂る」に対比させて「トトロ」が作られているということだと思う。

おそらく、それ以前の宮崎作品への高畑からのメッセージというのはあると思うけど、多分、「トトロ」の表現の細部を気にして「火垂る」が作られた訳ではないだろう。

もちろん、この題材を選ぶ時点で、「トトロ」との対比ということは意識されただろうし、宮崎が自分のいなところで、なにをどんな風にかくのか、ある程度は、高畑は知っていたし想像しただろうけども。
多分、高畑からの直接のメッセージは、「天空の城ラピュタ」と「かぐや姫の物語」が対応しているみたいに、ものすごく長いスパンのもののような気がします。

歴史に残る映画です。
見たら、トラウマも残るけど。

けど、その棘を心に突き立てたまま、ぼくたちは活きていく。

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火垂るの墓 シネマ・コミック4

原作者・野坂 昭如が、アニメだと思ってバカにして(?)見たら、自分が住んでいた町並みとそっくりの家が出てきて、自分の記憶している通りの方角からB29が飛んできて空襲をして、そんなこと本に書いた覚えもなければ、今までだれにも話したことがなかったのにと驚いて、続く物語で、映画館(試写)に居たたまれなくなって、外に出た。みたいな話を聞いたことがあります。

原作自体は、淡々とした話で「こうとしか書けなかった」と言っていたり、自分の子どもが学校で、

「この物語を書いたときの作者の気持ちはどうだったのか?」

という問題が出たので、直接、作者である父親に聞いたら、

「あんなの書きたくなかったけど、原稿取りがまっていて、金が欲しかったから書いたんだ」

的なことを言ったとか。

「書きたくなかった」り淡々としか書けなかったというのは、それだけ作者のなかで、この話が昇華しきれていないということなんだと思います。

そして、その「痛い」部分を、容赦なくえぐってくる映画が、この「火垂るの墓」ですよねぇ。
原作者がかくしたことすら露わにしてしまうほど原作に即した映画。

これ、トトロと同時上演っていうのが、凄いですよねぇ。

子どもの心をわしづかみして、思いっきり突き放す。
多分、こっちを先に見た子どもは、トトロまでたどりつかなったのではないかと思います。
普通、途中で映画館でるわ。

でも、これは悪口ではなくて、それぐらい破壊力が強い映画だということです。

そして、お兄ちゃんは、まだ少年の姿のまま成仏できずにウロウロしている。
それは、原作者の野坂 昭如が生き残ったということであるし、罪が消えていないということもでもあります。そして、ぼくらのなかの罪の意識も、消えることがない。

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となりのトトロ ジブリの教科書3

うーん、宮崎 駿が理屈を積み上げて考えて作られているお話だけに、いくらでも、難しいことを話せるのですが、難しいことを話せば話すほど、嘘くさくなって離れているのが面白いですね。

トトロを見た子どもって、これをそんなに昔の話としてではなくて、割と今の近くにある話(まあ、近くなくても車でちょっと行けば見つかるような場所)のとして受け止めているのだと思います。
多分、そうでなければ、のめり込めない。

でも、そんな風に受け止められない、まったく意味がわからないという世代が、もしかしらもうすぐ出てくるのかもと思ったりもします。

ポスターの女の子はダレ?

という話とかが、とても面白い。
言われてみるまで、まったく気づかなかったです。