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聲の形5

修復しかけたように見えていた関係が、一気に崩れ落ちる5巻目。
映画でも見ていたにもかかわらず、凄いダメージというか、衝撃があります。

普段、わたしはマンガって、感想を書いてから次の巻を読みます。そうしないと、どの巻の感想かわかんなくなっちゃうので。ですが、この5巻6巻は、一気読みしてしまいました。

5巻は永束くんの映画づくりの話が入っきていて、ここは映画版「聲の形」ではバッサリとカットされたので、それが面白いというのもあります。これやっていたら映画の枠では収まらなかったけど、これがあることで真柴くんのおもしろさも引き立ちます。映画では、ちょっと唐突な人だったから。
そして、先生も手話を覚えている。これ凄いことで、まあ、それがあるからといっても悪役として見られるけれど気づいて欲しいところです。彼を非難だけする前に、自分なら、そんな風にできるかと。

5巻ラストの崩壊にむけて、あの川井さんに追い詰められて将也がキレるシーンは、緊張感もあるしすごい好きなシーンでもあります。
そして、出会って時間が動き始めなければ貯まらなかったマイナスポイント。多分、プラスもあるはずだけれども。

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酪農みるく!2

2巻で完結。
本当に、なんというか、ふわっと自然に着地した。素敵だ。
1巻目の表紙では、幸薄そうだったみるくの顔が、2巻目はしあわせそうです。まぁ、あんまり作品中、幸薄そうなみくるって表紙以外にはなかったけれど。

それぞれキャラクターの落書きみたいにかかれる過去と、あとがきに、なんというかホロッとくる。そう、こういう違和感というか、自分の居場所がない感じって、けっこうみんな感じているのかもしれない。

自分の居場所が見つかって、自分が誰かの居場所になれたら……いいなぁ。

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聲の形4

子どもの将也の言っていることも、植野さんの言ってることも、わかるんだけれども、それを肯定する気には到底なれないし、実は良い子だなんて到底言えない。
人にそんな風にあたるぐらいなら、人付き合いそのものをやめた方がマシじゃないかといいたくなる。

「殴っている方が痛い」

なんて理屈は、殴っている人間にだけ都合の良い理屈だと思います。

さて、後半。

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聲の形3

将也の男女問わずのモテっぷりに、ちょっと納得がいかないものを感じたりもする3巻目(笑)
まあ、植野さんとの関係は、映画見ていても気づいたけれど、よりわかりやすくかかれています。そのせいで、余計に恵まれている感がなぁ。

ただ、そうすることで、映画では唐突に出てきた西宮さんの「つき」が、唐突でなくなる部分はありますねぇ。
高校生って(というか人って)、いろんな事を同時進行的に考えながら生きている。

いい感情も、どうしようもない感情も、否定するわけにはいかない。全部ひっくるめての自分です。

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聲の形1

すごいマンガがあるよという話は聞いていて、まあ、購入はしていたのですが、聾唖、いじめと、なかなか重たいテーマだなぁということで未読でした。
今回、アニメ映画になったので見てきました。

映画、やっぱり重たかったけれど凄い良かったです。でも、もし映画館で見たのでなかったら、けっこう途中でめげて見なくなっていたかもとも思ってしまいます。
なんなんだろうなぁこの感じは。多分、「火垂るの墓」なんかと同じで、どこか、自分の罪の意識とかトゲに引っかかるところがあるからかもしれません。まあ、こっちはそれでも、なんとなく希望がある感じで終わって、後味はすごい爽やかなんですけどね。

映画は、メチャクチャよくまとまっていて、本当に必要なところだけを上手に詰め込んだ感じです。手話とかのシーンは、ちゃんと動いているアニメの方が、多分この話を進めるにあたっては優れていると思います。
ただ、深く見たり、内面を掘り下げていくのは、原作マンガの方がいいなぁと今回読んで感じました。
ちょっとずつ、ちょっとずつ、みんなから離れていく感じとか、西宮さん転校までの時間の経過とかは、マンガの長さがあってのものです。

この年齢の子に、ダメなことがなぜダメなのかを伝えるのは、とても難しい。言葉で、根気よく伝えていくというのは、とても言うのは簡単だけれども。伝わる前から、そのダメな行為そのものは、無理矢理にでも止めないといけなかったりもするし。
映画の感想なんかを見ていると、担任がクソだ、川井さん怖いとか、植野さんや、将也は悪くないみたいな感想が出てたりしているけど、まあそれは、自分のなかの罪を見つめないで、人の罪を告発していたら楽だろうレベルの話だと思う。そういいたくなるのは、自分が、植野さんや、将也であるからかもしれない。(そして、ぼくがこうかくのは、自分が担任や川井さんであるからかもしれない)。

なんというか、生きているだけでねぇ、なんか人にひどいことしているっていうことはあるし、それは多分許されないんだと思います。

それでも、西宮さんが恋をしたのは、将也の真っ直ぐなところ。でも、それが唯一の正解ではない。そういうこともあるかもしれないということで、なにが正しいか、なにが正しくないかは、180度変わってしまうこともある。

映画で気になっていたのは、西宮さんは恋をしていたけど、将也の中にあるのは贖罪の意識だけなんじゃ無いかということ。そうすると、関係としては、いびつな感じだなぁと思ったりしています。まあ、映画が終わっても、登場人物たちの人生は続いていくので、その中で、関係性も変わっていくのだと思うけれど。
そのあたりが、丁寧にかかれた原作でどうなっているのか気になります。