草迷宮・草空間一覧

図書館の片隅に、忘れられたようにひっそりと

金魚屋古書店13

図書館にマンガ、けっこう入ってるみたいですね。

マンガ、あってもいいけど、なくってもいいかなぁ……。
どのマンガを購入する買っていう線引きってけっこうできないと思うんですよねぇ。厳選するか、選ばずにドンドン入れるか。で、ドンドン入れると、どうしようもなくなってるのが目に見えてる。

厳選するとしたら、うーん、わたしの図書館には「夢の夢」は、入らないかなぁ。
「トーマの心臓」は、入る。でも、「ポーの一族」は、名作だけれど入らない気がします。
「空の色ににている」と「草迷宮・草空間」は、入るな。
白倉 由美は、なんか1冊入れたい。うーん、「贖いの聖者」かな。でも、これを入れると自分の基準がぶれている気もする。

「金魚屋古書店」のこの巻のお話の中で、「草迷宮・草空間」の本ばかりを集めている人の不思議な話があったけれど、そんな狂気と背中あわせなマンガなら、図書館にあってもいいかも……。

基準が自分でも良くわからないけれど。健全な基準でないのは、確かですな。

少年マンガは、入らないかも…。


夢見る家

星の時計のLiddell3

ヒューは、ウラジミールのことを「最大の理解者」と、呼びます。
ウラジミールが、ヒューのことや、ヒューに似た人間たちのことを調べていくのは、彼がヒューを理解したいと思っているからです。

たしかに、ウラジミールは、ヒューがどうしたいと思っているのかが、わかります。
でも、どうしてヒューがそういう結論に達するのかについては、理解できないと思っていて、それを理解するために、いろいろなことを調べようとします。

でも、ヒューがどうしたいと思っているのかがわかる時点で、実は、その答えは、心理学の本のなかにではなくて、ウラジミール自身の心のなかにあるような気がします。

3巻目は、いよいよはじまった家探しと、その結末について。

その家に住んでいたカーロフ家の家族は、ずっと、幽霊たちの存在を見つめながら育っています。
その幽霊たちというのが、どうやら、ヒューとリデルであるらしい。

さて、ここから先は、もしかすると解釈が違ってしまう人が出てくるかも。
間抜けなことを書いていたら、申し訳ないです。
うーむ。この手のお話の感想を書くというのは、自分のいろんな内面的なレベルをさらけ出しているような気がして困ります。

その家のカーロフ家の家族以前の持ち主は、スターリング・ノースという名前でした。
そして、カーロフ家の祖父は、幽霊のことを「スターリング・ノース」と呼んでいた。
そして、スターリング・ノースは、当時13、4歳の少女と一緒に住んでいた。

ということは、スターリング・ノースとヒューは、もしかしたら、イコールということなのでしょうか?

物語の最後で、ヒューは消えてしまって、あちら側の世界に行ってしまったことが示されます。
そして、スターリング・ノースも、屋敷内にはお墓が見あたらずに、消えてしまったようです。

ヒューは、ただ単にいきなりあちら側の夢の世界に旅立ったのではなくて、現実の世界のなかで家を見つけて、それを足がかりにして少しずつ消えていきました。
もしかすると、彼の幻視の力というのは、何か足がかりにしないと発動しないものなのかもしれません。

だからわたしは、この世界から消えたヒューは、過去に戻ってスターリング・ノースになったのではないかと思うのです。
リデルを見つけて、家に住む。

そして、もう1度、彼はその世界からも消えて、リデルと2人で本当の幽霊になったのではないかと思うのです。

世界から消えるたびに、ヒューの存在そのものは、本当に幽霊に近づいていく。

もしかすると、その幽霊屋敷そのものをスターリング・ノースたるヒューは作った(または、幽霊屋敷そのものになってしまった?)のではないか?

それどころか、幽霊屋敷を含む、そして現代のウラジミールをすら含むこの世界そのものを、その過去の時点でのヒューが作ってしまったのではないか?と思えます。

これは、因と果が、逆転しています。
または、卵が先か、ニワトリが先か。

でも、時間を思いで越えてしまう、未来が過去にある人にとっては、ある意味、当然のことなのかもしれません。

それにしても、リデルがずっと待っていたのが、ヒューではなくて、ウラジミールだというのも、ものすごく意表をつかれます。

スターリング・ノースは、また、幽霊としてのヒューは、きっと何度も、ウラジミールのことを少女に語ったに違いありません。

キンモクセイのかおりが、小さな時から好きです。
キンモクセイのかおりが、する季節には、校庭のキンモクセイのオレンジ色の花の近くでネコがマタタビをすったような状態に毎年なります。
雨が降って花が一斉に散ってしまうまでのしばしの贅沢です。

そのキンモクセイのかおりが見せてくれる夢のような?
そんな話には、本当は、こんな無骨な「解釈」は、必要ないのかもしれません。

ある意味、この物語は、マンガで語れることの天辺を語ってしまっています。

今回、この物語を読む徒然にいろいろと調べてみたのですが、この内田善美は、この作品のあと「草空間」をかいて、その後、マンガをかいていないようです。

なんとなくですが、これ以上、かくことがなかったのかも。そう思わせるような完成度の作品です。

「空の色ににている」にしろ、「草迷宮・草空間」にしろ、この「星の時計のLiddell」にしろ、今では、絶版で手に入りにくいマンガであるようです。

特に、「空の色ににている」は、自分が持っていないこともあり、めちゃくちゃ気に入ったこともあり、「絶版なのは罪だ」と思ってしまいます。

人気も高くて、復刊ドットコムでも、投票が集まっているのですが……。

交渉結果は、作者と連絡が取れず……。

ウワサによると、作者自身が、自分の全作品の再発行を望んでいないとか……。

なんとなく、この作品の作者らしいとも思います。
きっと、作者自身も、「幽霊」になりたかったのかも。

ところで、ずっと疑問だったのですが、内田善美って、男の人ですか、女の人ですか?


なねが恋ふれぞ 夢にみえける

星の時計のLiddell1

「空の色ににている」を読んでから、もう1回読み返そうと思っていた「星の時計のLiddell」全3巻を読みました。

以前読んだときは、ストーリーを追っていくことが出来ず、なんだか登場人物たちの話す難解なセリフのなかに大切な話が入っているのかなぁと思っていました。

さて、今回、「はたして理解できるのか?」という疑問をもちながら読み返したのですが、なんと、自分のなかでストーリーがスーッと通りました。
ただし、自分のなかで通っただけで、それが人のストーリーとあわせてみて、正しいのかどうかというのは、わかりませんが……。

えーと、映画で「ミツバチのささやき」というのがあります。
これは、とても好きな映画で、これまで3回ぐらい見ました。そして、いっつも、わたしはすごくおもしろいと思っているのに、途中で眠ってしまいます。
この映画、不思議なことに、ストーリーを語り出すと、わたしの語るストーリーと兄貴の語るストーリーと映画の紹介文のストーリーでは、全然、別の話になってしまいます。

これは、例えば、「『はみだしっ子』で、なんで、グレアムがあんな行動をとったか?」みたいな登場人物の心理に関して解釈が違うというようなものではなくて、本当に、受け取った物語のストーリーそのものが、全然、別個のものになっているというキツネにつままれたような経験です。

そして、多分、この物語も、受け取る側によって、ストーリーそのものが変わってしまうような微妙な部分があるような気がします。

まあ、「空の色ににている」を読んだときほど、これはわたしに向かってかかれている物語だと強く感じたわけではないのですが。
そのあたりは、この物語が再読であることなども、もしかすると関係しているかもしれません。

少女マンガは、何回も読んである瞬間スーッとストーリーが理解できる瞬間というのがあります。
これは、こっちの成長が、少女マンガに追いついたということなのだと思います。
1番最初にこの経験をしたのが、萩尾望都の「トーマの心臓」でした。
少女マンガには、物語のなかで語られていない(というか、成長しないと見えてこない)「ブランク」があって、しかも、その部分が物語の核心の部分とつながっていたりします。
「星の時計のLiddell」も、今回読んでみて、

「あぁ、以前は、ここがひっかかって理解できなかったんだろなぁ……」

という部分が、たくさんありました。

それから、ビックリしたのは、書かれていることの新しさです。
例えば、睡眠時無呼吸症候群なんてのは、最近では、日常的に聞くようになりましたが、この当時からあったんだ。
西洋人と日本人の言語における脳の使い方の違いも、わたしは、つい最近、ニュースで知ったばかりのことです。

書き始められたのが、1982年。今から、22年ほど前なんですよ。
ものすごく過去を指向していく物語のようでありながら、その目は、未来に向かっても開かれているのがわかります。

今回、わたしの持っている本を見直してみると、1987年10月25日 第8刷発行となっています。
まあ、発行されてすぐに買ったかどうかはわからないのですが、本自体は、今から、17年前に出されたようです。

前にここにこの本のことを書いたときは、「大学を卒業して大人になってから読んだはず」と書いていましたが、もしかすると、高校、大学ぐらいでこの本に出会っているのかも。
「好み」そのものは、もうこれぐらいの年齢で完成されていた気もしますが、このころなら、まだ理解できなかったのもわかる気がします。
なんというか、考え方そのものは、この頃にかなりできあがっているのですが、この後、自分の情報収集能力というのは、飛躍的にのびている気がします。
まあ、のびているのが、情緒面ではなく、そういった能力的な部分であるというのは、かなり情けないことではあります。

さて、物語は、「幽霊になった男の話をしよう思う」というナレーションからスタートします。
そして、語り部であるウラジミールが、街に戻ってきます。
街に戻った彼は、その街にすむ友人のヒューとお酒を飲み交わす。
ヒューは、まるで、ウラジミールが2年間もその街にいなかったことなど気にしていないように、まるできのうも出会ったかのように彼を受け入れる。

わたしを混乱させる罠は、しょっぱなから張ってある。
実は、ウラジミールは、とっても現実的な人間で、一方、ヒューは、夢想家です。

旅に生きる人間は夢想家。土地に落ち着いて暮らしている人間は現実的。
多分、そんな刷り込みが、以前読んだときは、この2人の性格を誤解させたのだと思います。

そうか、旅から帰ってきたのは、ヒューじゃなくて、ウラジミールだったのか。

今回、読んでみて、そういう印象の違いは、たくさんありました。

えっ、葉月ってヒューの彼女じゃなかったの?

とか。
ション・ピーターのピュアな部分というのは、何となくヒューのような主人公が持ってるべき資質だと思っていたのかもしれません。

そう。わたしは、単純な「物語とはこういうものだ」という常識に囚われすぎていてたようです。

でも、それらは、登場人物たちをとっても厚みのある生身の人間(というと少しニュアンスが違うかも。リアルな?これも違うか)にしています。

メインのヒューに向かう物語とは別に、登場人物は1人1人それぞれの物語ももっていて、それが、同じ重さで物語のなかで語られたりすることがあって、どっちに属する話なのかが混乱してわからなくなってしまっていたようです。

例えば、葉月は、恋人のジョン・ピーターには見せない(見せるときっと彼を傷つけてしまうと感じている)一面を現実主義者のウラジミールには見せたりします。
そういう話が、めちゃくちゃさりげなく入っていて、人物を浮き立たせています。

ヒューは、古い夢を見て、夢に惹かれています。
何度も、何度も繰り返される夢。夢のなかの彼は、とても、幸せそうです。

でも、現実の世界の彼が、不幸そうかというとそんなことは、全然ない。
わたしには、夢のなかの彼と同じように、自然体で幸せそうに見えます。
このあたりは、他の人と解釈が違うかも。

でも、ヒューには、「いつか自分が向こう側に行ってしまう」という予感があったのかもしれません。
その「予感」をウラジミールや、ヒューの母親は、「死の予感」と感じたのではないかと思います。
そして、葉月たちにとっては、それは、「未来への予感」。

だから、彼が、どうしても、「あちら側」に行かなければならないと思ったのは、「あちら側」の人間であるリデルが彼を呼んだからではないかと思うのです。

ヒューは、世界中にあるものをすべて等価に愛する。
これは、本当は、ヒューではなくて、「草迷宮・草空間」の主人公の草が、友だちに言われていた言葉だと思うのですが、多分、ヒューもその解釈で間違っていないと思います。

だから、ヴィとはつきあっていた(?)というもののそれは、

「彼女がヒューを必要としていた」

からであって、彼女が自立して、ヒューを必要としなくなった(?)とき別れを切り出されても、それほど取り乱したりしません。

もちろん、彼女のことを心配しているのですが、なんとなくそれは、誰にでも向けられる思いのような気がするのです。

そして、そんなヒューに対して、ウラジミールは、心理学など現実的なアプローチで、ヒューに迫ろうとしています。
そして、多分、そのアプローチでは、ヒューの見ているものを本当に理解することは出来ないのだと思います。

以前は、ウラジミールが何を調べているのかということも、何で調べているのかということも、ちっとも理解できていませんでした。
ウラジミールの趣味か?とか思っていたようです。
そして、ウラジミールは夢想家という誤解な刷り込みが、どんどんなされていくという。

あと、今回は、「相手が思いをかけているから、その人が夢の中にあらわれる」といセリフは、つい最近読んだ本の「手のとどかないものは、こちらが一方的に焦がれているものとは限らないよ。あの星は、おまえに思いを寄せているのさ」というセリフと自分のなかでは、ぴったりと重なって、ちょっとビックリしました。

こういうことがあると、今、運命的に(というとオーバーか)正しい時期にこの本を読み返したのだなぁと思います。


空のなかの千の色

空の色ににている

多分、わたしが気に入るだろうということで、貸してもらったマンガです。

内田善美のマンガは、以前に何冊か読んでいて、特に市松人形の「ねこ」のでで来る「草迷宮・草空間」というお話は、お気に入りで何回も読んでいました。

その後、りぼんマスコットコミックスから出ている「星くず色の船」と「秋の終わりのピアニシモ」なんかを読みました。
これは、すごく密度の濃い絵を描く人なので、新書版コミックには向かないなぁというぐらいの感想しか、もっていなかっのです。

そして、「星の時計のLiddell」というマンガを読んだわけです。
多分、この「星の時計のLiddell」は、大学を卒業して大人になってから読んだはずのマンガです。

わたしは、幼少の頃から、マンガ読みをしておりますので、少年マンガだろうが、少女マンガだろうが、自分に理解できないマンガはないだろうと自負しておりました。
もちろん、「はみだしっ子」なんかは、今読んでみると、どう考えても当時の理解は間違えだったということが判明しているマンガもあるのですが、それでも、その年齢なりの理解はできるだろうと信じていました。

でも、「星の時計のLiddell」は、そんなわたしにとっては、めずらしく理解できないマンガだったのです。しかも、大人なのに(笑)
「理解できない」というと、いろいろな意味にとれてしまうのですが…。
他のマンガでも、「何でこんなことするんやー」という理解できない登場人物というのはいたりするのですが、そういうこととは違うのですよ。

わたし、この全3巻もあるマンガのストーリーを全然、追いかけられなかったのです。
で、その当時のわたしの理解が、ストーリーは、どうでもいいことを追いかけていて、実は、登場人物同士の会話のなかに、なんか本当のことが隠れているのかなぁ……。というもの。
これが、あっているのかどうかも、わかりません。
↑ なんせ、ストーリーが全然わかっていないから。

まあ、オーバーなお話ですが、このストーリーが追いかけられないというのは、けっこうトラウマになっていて、そのあと内田善美のマンガというのは、全然、読んでなかったのです。
似たような現象は、こなみ詔子の「タイルの水」を読んだときにもなりました。

ということで、「空の色ににている」も、辛そうだったらちょっとずつ読もうとかいうけっこう消極的な態度で読み出したわけです。
ちょっとずつ読もうと思っていたから、時間も、けっこう夜遅く。

気に入るというか……これは、どっぷりはまってしまいました。
というか、はまりこみすぎて、混乱して、なんというか感想というか、感情というか、そういうものが、グルグルとまわった状態になって、その夜は、眠れなくなってしまいました。
これは、一気読みしてしまうマンガではないですね。

最近読み始めた「彼氏彼女の事情」とかも、すごくおもしろいて先にを読みたくなるマンガなのですが、「空の色ににている」は、そういうのとも、ちょっと別格なマンガです。

感想を書こうとしているのですが、ひとつは、まだ興奮と混乱がおさまらないということもあり、もうひとつは、なんだかこの話のことを語るのは、あまりにも自分のプライベートなことを話すような気がするのです。
なんというか、この話は、わたしに向けてかかれた話だ、という印象がとても強く感じられるのです。

もちろん、わたしがこの主人公たちのような柔軟で、繊細な心を持っているという意味でも、この主人公たちに似ていると思っているわけでもないのですが……。

それでも、これは、自分にむけられたメッセージだと感じてしまうのは、なんでなんだろう?

実は、冬城の失踪の真相(?)は、天然系の2人が思っているような理由ではない気が、わたしにはします。
でも、なぜか、いつものように、「あれは実はこうだったんだとわたしは思うよ」というように、自分の考えを出していく気がしないのです。

なんか、2人がそう思っているのなら、それでもいいのかなぁ。
そうやって、「世界」は出来ていくのかなぁ。
と、そんなふうに感じます。
この2人みたいに、世界を感じ取れるようになりたいと思っていて、そうなれない自分のことも理解しています。

ただ、「そうなれない自分」を否定的に見るのではなくて、そんな自分すらこのお話に肯定されているような気がします。

なかなか、書きながらもどかしいです。言葉で伝えにくいので、これは、この文章は、思っていることの輪郭だけというか、周辺だけをグルグルまわっている感じがします。

ただ、1つ言えることは、このお話に出会えてとってもよかったということです。
そして、多分、この年齢の時に、このタイミングで出会うことがなかったら、これほど、心を揺さぶられることもなかったのだと思います。

むかしは、「作品」というもう評価の決まったものがあって、自分がそれにアクセスしたときに、それがわかるのかと思っていたのですが(少なくとも、自分のなかの評価というのはそれほど年とともにかわるものではないと思っていたのですが)、実は、そうではないようです。
どんな精神状態だったか?それまでにどんなお話と出会ってきたのか?どんなきっかけで、そのお話を読むようになったのか?買ったか?借りたのか?だれに借りたのか?
その時々の自分の状態によって、多分、少しずつ、ときには大きく、そのお話に対する自分の想いというのは、かわってくるです。

そして、そのお話をうけいれる1番ベストな状態なときに、ぴったりとはまる物語を読むのは、とても幸福なことです。

さて、1度、以前は挫折した「星の時計のLiddell」を読み返してみよう。