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この暴走していく感覚。この時代の江川 達也にしかないものです。
毎回、次がどうなっていくのか、ドキドキしながら読んでいました。
この暴走していく感覚。この時代の江川 達也にしかないものです。
毎回、次がどうなっていくのか、ドキドキしながら読んでいました。
この「さくら組」のお話からの怒濤の展開(無人島に行くまでぐらい)は、ものすごくドキドキしながら、毎週楽しみにしていた記憶があります。
この展開の途中で、ヤクザに追われるあたりから週刊連載になったんだっけ?
若く、天才だったときの江川 達也。
なにかを意識してかきだしたときから、限界が見えてしまうという感じもします。
このハチャメチャさが、好きでした。
わたしの正岡 子規のイメージは、江川 達也の「日露戦争物語」の前半のノボさんのイメージです。
元気な頃のお話は、割と、そのイメージ通りかな。いや、病気になってからも、偉そうにしながら甘ったれなところなんかがかいま見えたりして、基本的には、楽しい人なんだろうなあと思いました。1
野球を楽しそうに語るところなんか、いいです。
いや、お前の説明、さっぱりわからんし!!
まあ、野球自体も、めちゃくちゃ画期的なありえないルールのスポーツなんだと思いますけどもね。
短歌、俳句の批評は、よく理解できないところもあるのですが、この人、めちゃくちゃ真面目で理屈っぽいです。
理屈で歌を詠んではいけない、感性で詠めということを、ひたすら理屈が通るように理屈で説明しようとしているみたいに感じました。
うーん、わたしは、短歌や、俳句はよくわからないのです。特に、俳句は、よくわからない。
でも、この人の俳句、そんなに感心できるものとは思えないんですけども……。
文学を政治という枠にはめて読み取ろうとする試みです。今、大塚 英志のなかでは、「政治」がはやりなのだと思います。
もうちょっと詳しく書くと、「右翼的なものの考え方の脱却」かな。
政治というものさしがしっかりしている分、評価はぶれない。
だから、紹介している文学をほとんどすべて、ぶった切っています(笑)認めているのは、安部 公房と大江 健三郎ぐらい。
それ以外は、三島 由起夫も、太宰 治も、井伏 鱒二も、全部、ぶった切られています。
えー、それなら、わざわざ「読め」って、紹介しなくてもいいじゃん(爆)安部 公房と大江 健三郎だけ読んでいたらいいじゃないか。
まあ、多分、大塚 英志が思ったのは、
「初心者が文学を読んだとき、文学に騙されない」1
ためのガイドなんだと思います。
まあ、物語の読み方はそれぞれなので、もちろん、こういう読み方も悪くないと思います。でも、それを「初心者」に「ガイド」するというところに、大塚 英志の悪意……というか、作為を感じます。
そういえば、わたしが大塚 英志の本で最初に読んだのが、「<まんが>の構造」でした。
これは、マンガを民俗学的という枠のなかで読み取ろうとする試みで、ものすごくスリリングで楽しく読んだ記憶があります。
多分この「<まんが>の構造」も、本書も、同じ仕組みをもつものなんだと思います。
でも、民俗学は、ある意味、物語を読み解くためのものなのですが、政治というのは、物語を読み解くために適当かどうかというと、ちょっと疑問です。
最終的に、江川 達也の「日露戦争物語」の様に、物語否定になったら、ちょっとイヤだと思いました。
でも、三島 由紀夫も、太宰 治も、大江 健三郎も、もう1回読んでみようかなという気になりました。
安部 公房だけは、なんとなく物語があんまりにも作為的すぎる気がして、避けたい気持ちですが。でも、ある意味、作者の強烈な作為がないかぎり、「物語らしさ」、「物語としての整合性」という枷は、「気持ちいい」方に、右翼的な方に、傾いてしまうのかもしれません。
でも、それは、思想的には正しくても、物語としておもしろいのか?