リアル一覧

言葉で伝える

海よりも深く4

不思議な話になってきた……。
まあ、もともとが、占い師の予言からはじまった話だし、アレルギーのビリビリだって、ありえない話ではあったのですが。

幽体離脱に、テレパシー。

なんでもありだなぁと思うのですが、それでも、心の動きは極端でありながら、妙にリアルというか迫力があったり、納得させられたり。

そして、その不思議が物語のテーマと必然的に絡みあっていることがすごいなぁと思います。


11月 湖畔のゲーム会 その3 最高?ファンブル?

蟻の国

蟻の国
3つ目のゲーム。
またまた、サイコロ、コロコロです。

1 アグリコラ
2~4 蟻の国
5~6 サンクトペテルブルグ
7 プエルトリコ14
8~10 ツォルキン
11 宝石の煌き
12 チグリス・ユーフラテス

「ブルゴーニュ」は遊ばれたので、その本命枠には、「蟻の国」が入っています。

コロコロ。
「蟻の国」。本命枠です。
プレイは、2回目。以前遊んだのは約1年前の去年の12月です。その後、和邇乃児さんが、けっこうゲームハウスに持ち込んでいるにもかかわらず、あまり遊ばれていなかったのは、けっこう重いゲームだったという印象があるのと、「蟻」という題材故に割と避けられていたのかも。
なんか、遊ぼうと取り出すまでして、和邇乃児さんがDIYで作った追加タイルまで見たのに、

「でも、これするほど時間ないよなぁ」

と、遊ばれなかったこともあった、ちょっと不憫なゲームです。

でも、面白かった記憶はあります。
そして、最近の湖畔は重ゲーのブームです。
よし、受けて立とうじゃないですか!!

「『蟻ゲーにハズレなし』って言うらしいからね」

と、最近、ポットキャストで覚えた言葉を伝えると、

「蟻ゲーなんて、他になんか知ってるか??」

と聞かれました。
このゲーム以外、まったく思う浮かばなかったです。

まあ、これしかなければ、これがハズレじゃなかったら、ハズレなしで問題なし。

ということで、「蟻の国」です。
今回は、和邇乃児さん手作りの追加タイルも使ってのプレイです。

蟻になって、フェロモンをまき散らすゲームです(笑)しかも、フェロモンまいたら死ぬ……いさぎよいな、蟻(笑)
これも、ルールいっぱいの重いゲームです。割とはじめからやれることは多いです。そして、上手にやれば、どんどんやれることが増えていく。そらに、多分、いきなり何にも考えずに進めれば、ハマって身動きがとれなくなっちゃうタイプのゲームです。でも、それぞれの動きの結びつき自体は、「ブリュッセル1893」や、「ブルゴーニュ」みたいに、複雑に絡みあっているという感じではなくて、その部分は見えやすいと思います。
それに、ゲームをするごとに、プレーヤーの行動の指針となるような仕組みもしっかりとあって、ある程度、今回はこうやったらいいのかなぁということを示してくれるようになっています。

なによりも、蟻のコマのリアルさが、このゲームの良さというか……嫌いな人が嫌うポイントのような気がちょっとします。

これも、個人ボードと共通のメインボードを使って遊びます。
「ブルゴーニュ」は、メインボードの方がリソース置き場みたいな感じで、個人ボードの方にタイル配置をしていくというゲームでした。1)
「蟻の国」は、個人ボードの方はリソース管理と行動の計画、メインボードの方が陣取りという感じになっています。
こうやって考えると、個人ボードを使うゲームでも、個人ボードに箱庭を作っていくゲームと、個人ボードでリソース管理をするゲームと2種類あるみたいですね。
「テラミスティカ」や、「ハンザテウトニカ」は、個人ボードはリソース置き場なゲームです。主戦場は、メインボードでのぶつかり合いになります。もちろん、個人ボードでリソースが取られていくということで、自分のステータスを表したりするという重要な役割はあるのですが、あくまで主戦場は、メインボードになります。

「プエルトリコ」は、共通のメインボードの方がリソース置き場で、基本的には自分の個人ボードに箱庭を作ってい感じのゲームです。もちろん、メインボードにも、船の要素など2で共通の要素があります。でも、自分のボードを充実させていくのが重要です。
「ブルゴーニュ」も、この箱庭を作っていく感じが強いです。

「アグリコラ」は、箱庭を作っていくのですが、メインボードでは、ワーカープレイスメインとという強烈なイス取りゲームをしているので、どっちが中心というのは、難しいかもしれません。

「蟻の国」は、個人ボードで内政みたいなことをしながら、メインボードで陣取りをしていきます。個人ボードの方は、行動プロットみたいな感じですが、ワーカーを増やせばやれることが増えていくという面では、ちょっとワーカープレイスメインにも似ています。まぁ、イス取りゲーム的な動きは個人ボードの方ではないので(まあ、個人ボードなんだから当たり前といえば当たり前)、ワーカープレイスメントでは、ないのかなぁ。これも、メインボード、個人ボードどっちが中心ということではなくて、どっちも同じぐらい気をつけていかないといけない感じです。

うーん。書きながら考えていて、考えると細かいところに、自分でもいろいろ矛盾が見えてくるのですが。
「テラミスティカ」や、「ハンザテウトニカ」で、個人ボードが重要じゃないわけではないというか、そんなことはなくて超重要です。
まあ、そう言うと、「プエルトリコ」には、メインボード、個人ボードという軸の他に、もう1こ大きな「役割選択」というシステムがついています。これは、タイルで役割を取るのですが、実はメインボードに役割がかいてあって、そこにワーカープレイスメント的にコマを置くとかでもいいわけで、そのあたりが、「プ」が、ワーカープレイスメインの先祖だと言われるところなのだと思います。
そして、「プ」も、箱庭を作るゲームというと、ちょっと言い尽くせないところがありすぎます。

ただ意識の流れとしては、「プエルトリコ」や、「ブルゴーニュ」や、「アグリコラ」は、箱庭を充実させるために、メインボードのアクションをしているという感じがします。
また、「ティラミスティカ」や、「ハンザテウトニカ」は、メインボードでの動きをサポートするために個人ボードの能力を解放するみたい流れがあるような気がします……。いや、けっこうあの能力(個人ボード)を解放するために、あの場所を取ろう(メインボード)みたいなことも、けっこうしているような……。
じゃあ、もう見た目(笑)

まあ、なにが最初に書きたかったかというと、個人ボードとメインボードを使うゲームでも、個人ボードでの動きが重要になるものと、メインボードでの動きが重要になるなぁというものがあるということ。
そして、「蟻の国」は、そのどっちもの動きが両方とも、重要になるなぁということです。
でも、考えてみたら、「どのゲームでも、どっちも大事じゃないの?」という、はじめの仮定がまちがっていたんじゃないかという、どうしようもない結論にいきついてしまいそうです。
長々かけて、どうしてこうなった?

もう、プレイレポートでも何でもなくなってきたので、普通なら、全部消して書き直すところですが、消すと忘れで、また1から同じ事を考えて同じ結論に達したりするので、残して置きます(爆)

実は、わたしが最初に「作戦」を考えるて、それにそって行動していくのが好きというのは、何回か出てきた話です。
で、このゲームの「行動」を計画するというのは、凄い魅力的です。
スタートから、計画をたてて超楽しい。前回は、ルールの多さが若干負担だったような記憶があるのですが、まあ、2回目なので、ちょっと動きもわかっています。
季節ダイスでおきるイベントに合わせて、

「おぉ、完璧!!」

と思うような計画をしているときが、ワクワクします。
でも、実際に手番がスタートすると、

「よーし、兵隊蟻で、テントウムシをやっつけた。思い通り」

とか思っていると、テントウムシをやっつけたので食料をゲットして、

「あっ、しもた。食料が多すぎてストックできない……」

となってしまったりします。
もう、「完璧な」計画ですから、計画では資源はストックできるだけビッシリもらえる予定なのです。でも、ここに計算していなかった虫を倒した時の食料が増えると……。事前に行動をすべて計画していただけに、その食料を使う場所がないのです。
はい、ただの計画時の見落としです(笑)

「あぁ、ここで資源が出るのなら、こっちの行動を計画しておけばよかった~」

無駄足を踏んだ感が、半端ないです。
まあ、毎回、毎回、そんなことをしているわけではないのですが、やるときはやるよ~大きいのを。

わたし、和邇乃児さんは、順調に育児蟻ゴマを増やして、和邇乃児さんは目的タイルの達成などで得点を稼ぎます。途中で、大量に出た資源を捨てたりともったいないこともされていたような。わたしは、外に戦闘にいったりで得点を稼ぎますが、巣の深度がなかなか進みません。でこねぇさんは、逆に深度はけっこう進んでいますが、育児蟻ゴマを増やすのが遅れて苦しそうです。

このゲーム蟻の3年間をプレイするのですが、最後の1年。
1年は、春、夏、秋、冬の4つに分かれていて、冬にするのは、餌の消費だけです。実質、秋の行動をすればゲームセットです。
イベントを見ると、「夏」に「勝利点+1」で、「秋」に「幼虫+2」になっています。
「勝利点+1」は、その季節に入る勝利点が全て+1点になるというものです。点数を集中して取りたい場面です。「幼虫+2」は、幼虫を誕生させると追加で2ひき誕生させられるというものです。
わたしの流れとしては、「夏」の間に「幼虫」を増やして、「秋」にそれを使って目的タイルを達成して得点したい。イベントカードの流れは、まったく逆。
さいわい、幼虫を消費することで、自分だけイベントをずらすことが出来ます。そして、この「幼虫+2」と「勝利点+1」は、幼虫を1ぴき消費するだけでずらすことが出来ます。

「いいこと考えたーー」

ということで、イベントをずらして、夏に「幼虫+2」をして、冬に「勝利点+1」にする。そうすると、イベントをずらすことに利用した分の幼虫を補いながら体制を整えで、冬に一気に複数の得点を取るというのが良さそうです。

動きが多いので、計画は慎重に。思わずノードにやることを書いて、「夏」から「秋」までの動きがへ大丈夫かどうか確かめます。

「夏」は、幼虫のところに育児蟻ゴマ3つ置いて、働き蟻のところに2つ置いて、仕事場に1つ置く。ここは、冬の大攻勢へ向けて準備するのです。
そして、「秋」は増やした働き蟻で、人の陣地をどんどん攻撃していくことと、目的タイルの達成です。

うん、手数も大丈夫そう。

秋、スタート。

「幼虫増えます」

「働き蟻増えます………あれ、蟻のコマがいない」

そうです。自分が持てる蟻のコマの数は、8ぴきで、これ以上はないのでした。そして、わたしは、もう3年目春までにすでの蟻のコマを誕生させていたのでした。

「あー、えー!!」

それのみならず、さっきの計算では、この「夏」の間に蟻ゴマが増えていることが前提だったので、「秋」の大侵攻でコマが足りなくなることが判明しました。

最近多いフリーズ。

「いやいや、まだ手はあると思うよ」

和邇乃児さんは、おそらく、仕事場においてある育児蟻コマを使って、今回、次回と目的タイルを狙えばいいのではないかとそれとなく示唆してくれています。そのコマは、巣の出口を作って、次のターンにそこから攻撃に行く予定のだったのです。
わたし、わざわざ今回、「勝利点+1」のイベントをずらしてしまっています。まあ、たかだか+1点。今、予定通りに巣の出口を作っても、次回戦闘にいける数は、計算より減ってしまっています。3回戦闘するつもりが、2回しかできなくなっています。
自分の得点的だけを考えれば、目的タイルの方が得点が伸びます。でも、その目的タイルは、和邇乃児さんがもう達成しているのです。それをすると和邇乃児さんに得点が入ってしまいます。しかも、「+1点」で。
感じとしては、トップの和邇乃児さんに、これ以上得点をいれさせてはいけない。

ということで、結局、長考の後、仕事は巣の出口設置に。
最近、ときどき、でこねぇさんの長考をとやかくいえなくなってきています。
人に優しく。

「秋」。
まあ、計画したほどあばれることはできませんでしたが、それでも、ボーナスの「+1点」で3~4点ぐらいは稼いで成功。

1位、和邇乃児さん61点。2位、りん52点。3位、でこねぇさん41点。

うーん。おもしろいんだけども、やっぱり考えることが多くてちょっと飽和してしまう感じがありますねぇ。
行動を前もってプロットするゲームは、自然と考慮しなければならないことが多くなるので、しかたないのかもしれません。
あんまり選択肢を狭めてしまうと毎回同じようなプレイになってしまうし、多要素だとゴチャゴチャになってしまいます。
まあでも、そのあたりは、要素が多すぎるかどうかというのは、わたしの経験とか、能力にもよるような気がします。
わたしにとっては、どっちかというと、このゲームでしてしまうミスは、人とのからみで出てくるのではなくて、自分の読み切れなさから出ている感じです。
まあ、もちろん、陣取りの部分で、

「こっちくんな!!」

とかはあるのですが。
ん?
このブログを書きながら、いろいろ調べていたら、タイルにエラッタがあるらしいです。
和邇乃児さんのは、大丈夫かな??
これは、再戦のフラグ??
今なら、まだ出来る(まだ、ルールは覚えている)。

  1. そういう意味では、個人ボードの方が実はメインといっていいのかも []
  2. まぁ、本当はメインボードにないのですが、共通の場という意味で []

ゆらぎ

放浪息子1

うーん、リアルはもうちょっと、異物に対して冷たいかもしれない。
と思いながら読んでましたが、マンガの世界も、けっこう厳しいし、簡単にはいかない。

しかし、劇で「ベルばら」をする小学生って、なにもんなんだ。
しかも、シナリオも自分らでかいてるし。

けっこう、おそるべし。
そして、楽しそうだ。

でも、これが中学生だと、ちょっと生臭くなるので、これの年齢設定は正しいのかも。


Fine On The Outside

思い出のマーニー

映画見てきて、その後に本を読みました。
本は、複数の出版社から出ています。ハードカバーの青い本が気になったけど、文庫本があるので断念。
こういう翻訳文学で、児童文学なら、新潮文庫が堅いかなということで、新潮文庫版をチョイスしました。
岩波版の「です・ます」調の翻訳にも、ちょっと引かれたのですが。

まずは、映画の感想ですが、すぐに原作本を購入して読んでいるのからわかるように、かなり気にいりました。

映画を見にいく数日前に、多分この映画のプロモーションとしてテレビで同じ監督の「借りぐらしのアリエッティ」をやっていて、そっちは、ものすごく「なにか足りない」感が多くて、これは、「マーニー」見にいくのやめた方がよいかもしれないなぁと思ったりしていたのですが。
「マーニー」は、「アリエッティ」とは、比べものにならない位の完成度でした。

「トトロ」は、びっくりするぐらい事件がほとんど何も起こっていないにもかかわらず、見入ってしまう映画でした。
「アリエッティ」は、逆に、いろんなことが起こっているわりに、感想が「それで?」みたいな感じの映画でした。人間関係や物語のなにかもかもが宙ぶらりんのまま、でも、アリエッティは引っ越しして終わりってどういうことよという思いが。まあ、それがリアルと言っちゃあリアルなのかもしれないし、あの小人がでてくるファンタジーでリアルさを感じるというのはある意味、すごいことなのかもしれませんが、なんか、もっとちゃんとしたお話に出来るだろう感が強かったのです。
で、「マーニー」ですが、動きだけでいったら、その「アリエッティ」よりも動かない映画です。でも、ドラマは、「アリエッティ」よりもあるのです。

まあそれは、こっちのストーリーが、わたしにとって好みのだというだけかもしれませんが。
基本、わたしの物語を読むって、感情移入なんだけど、それが、いきすぎちゃった感じ、引きずられすぎるぐらい引きずられる感じがあります。
映画を見ていて、あの画面に映っているのが、杏奈か自分かの見分けがつかなくなっちゃってる感じになりました。
だから、本当は、いい映画かどうかなんてわかんないんですよ。
でも、いい映画かどうかなんでどうでもいいぐらいに、自分の深いところに刺さったのは事実です。
だから、映画が、あのいい感じのところに、無難なところに着地してくれなかったら、今頃、うつになっているんじゃないかとすら思います。

魔法の輪の外側にいるって、わたしの中では、みんなの周りに輪があってそこに自分が入れていないイメージではなくて、自分の周りに輪があって、そこに自分しかいないイメージなんですよねぇ。
輪の中には自分しかいない。そして、ここが外側だ。意味わかんないかもしれないけれど。

まあでも、その輪の外側にいる感覚というのは、けっこう誰もが感じている普通の感覚という気もするんですけどね。

そして、輪の中に入るっていうのは、誰かの輪に入れてもらうことではなくて、実は、この自分に向かって閉じている自分の輪を少しだけ広くして、少しだけだれかを入れるっていう事なんですよねぇ。
それが、わたしらにはどんだけ抵抗のあることかを思い知らせてくれる映画でもあります。
だから、最初は、そのわたしのいる(杏奈のいる)「外側」に入ってくるのは、たった1人だし、マーニーのような「秘密の友だち」であるのです。

その存在が事実や、生身の人間であったかどうかは問題ではないのです。
その時に、自分の全身全霊をかけて、「信頼にたる人と出会うことが出来た」という経験は、事実であろうとなかろうと、るその人のなかの真実なのですから。

まあ、いつ杏奈が、廃墟になった湿っ地屋敷で、白骨化したマーニーに出会うんだろうかとか、映画みている間は、ちょっと思ってもいましたが。

マーニーが何者であるのか?
孤独な少女が生み出したただの想像上の「秘密の友だち」なのか、それとも、実在の存在なのか。
そこは、「トトロ」同様、ものすごく上手にぼかされています。
どっちの解釈も、ものすごくしっかりとできる。
ある人は、これを本当に不思議な少女と過ごしたそういう物語として受け取るだろうし、また、ある人は、不安定な杏奈の心と記憶が生み出した幻の少女だと解釈するかもしれない。
そして、このどっちの解釈も可能なファンタジーというのは、けっこう大事なことなのではないかと思います。
ただのファンタジーは、ファンタジーを信じる人のためだけのものですが、こうやって、ファンタジーじゃない解釈をいれることで、ファンタジーなんだけれど、すべての人に起こりうる物語として形が作られています。

わたしは、わたしが好きと思っている人には、この映画見て欲しいと思います。
それで、どんな感想を持つのか話したいなぁと思います。特に不器用に生きている子たちと。

あと、プリシラ・アーンのあの歌がものすごくいいですよねぇ。
あれも、心に突き刺さる歌です。

というのが、映画の感想です。
ストーリーとかは、これ読んだだけではさっぱりわからないと思います。
アリエッティダメだった人も、見てみてね。

で、ここから本の感想です。

実は、映画は、ものすごい繊細なお話で、多分、本の方はそこまではないだろうなと思っていました。
それは、たしかにそのとおりだったのですが、本の方が明確に見えてくるものもあって、そこが面白いなぁと感じました。

その1つ目は、映画の杏奈と本のアンナの違い。
感じ方や、置かれた状況は、ほぼ同じなのですが、けっこうわしのなかで、印象が全然違いました。

実は、「思い出のマーニー」の本を読んでいる間、ずっとわたしのなかに、似たような印象の本として浮かんでいたのは、「自閉症だった私へ」なのでした。

そう考えて物語を読むと、アンナの人との接しにくさや、ワンタメニーとの関わり合い、マーニーとの関係、たくさんのこだわりが、なぜ彼女にとってマーニーが必要だったのか、ものすごく理解できる様に感じます。
「暗闇の速さはどれぐらい」も、そういう主人公の物語でした。

と思って、ねぇさんに、

「これって、『自閉症だった私へ』に似ていない?」

と聞いたら、

「えぇっ、あのレイプされたりひどいことされる話だよねぇ」

と言われてしまった。
えぇ、「自閉症だった私へ」って、そんな話だったっけ?それは、わたしの印象の中にはまったく残っていないのだけど。
まあでも、たしかに虐待の話とかはあったですが。
それよりは、自閉症スペクトラム障害を持った人同士が、自分と同じ感じを持つ人を見つけて理解し合って静かに過ごしている様子や、石の小さな差異がわかったりという部分が印象に残っているのですが。

そして、アンナが過敏な部分や、言葉をそのままストレートに受け止めてしまうところは、どこか、作者が自閉症スペクトラム障害を持った子どもをイメージして書いたのではないかなぁと感じたのでした。
もちろん、作者が、そういう障害のことをしっていたかどうかはわからないのですが、多分、その時にモデルになった人物や出来事の一部に、そういう人がいたのではないかなぁと思ったのでした。

多分、アンナとワンタメニーは、お互いが同じところがあるということを感じたのではないかと思うのです。
だから、お互いに気むずかしい感じ同士なのに、自然と接している。
少なくとも、そういう関係が成り立つということをリアルに知っていたのだろうなぁと思います。

そういう「理解しにくい人」をそれでも理解したいと思ったときに出来た物語が、この「思い出のマーニー」ではないかと思います。

自閉症スペクトラム障害を持った人を健常者は理解しにくいです。
基本的に、「心の機能」が理解しにくい自閉症スペクトラム障害といわれていますが、「自閉症」について書かれた本を読んでいると、けっして、他人の「心の機能」が理解できないのではなくて、おそらく別のルールで「心の機能」が動いていることがわかります。だから、同じ障害を持った人(同じルールで「心の機能」が動いている)同士なら理解し合えます。
実は「人の心がわからない自閉症の人」というのは、自閉症の人の心がわからない健常者という意味でもあります。

でも、理解できなくても、少しでも知ることや、想像することが出来たら、多分、その人の居場所をつくることができる。
それは、治療とは違う考え方として、一緒に生きていくことが出来るのではないかなぁと思います。

障害が、オープンになっていく過程で、その言葉なんかを侮蔑の言葉として使うことで自分の不安を解消しようとする人間というのは、いつも一定数はいるのですが、そこで止まってその言葉を禁止して終わるのではなくて、その「違い」こそを共同体の強みとしていくことは可能なんじゃないかなぁと思うのです。

実は、健常者、障害者といっても、スペクトラムって一続きの連続体で、どこかに明確な切れ目があるわけではありません。
だから、だれもがなんらかの偏りをもっていて、なんらかの生きにくさをもっています。自閉症スペクトラム障害の人は、その生きにくさが人よりも強い。
人よりも強いといっても、人同士でどれぐらい辛いのか心の中を比べることはできませんので、まあ、外から客観的に見て判断するしかないわけです。

多分、ある時代、「障害」と呼ばれなかった差異でも、時代と共に「障害」とよばれることもあると思います。
「障害」って呼ばれても、それはいいのかもしれないと思います。その差異を知ることこそが、第一歩で、みんな自分なで同じで、自分と同じように感じ考えると思うことが実は差別を生んでいるような気がします。ただ、その「障害」を排斥するための言葉として使わずに、一緒にお互いが楽しく暮らしていくためには、どうしたらいいのかということを考える言葉として使われて欲しいと感じます。

そして、少し自分よりスペクトラムの向こう側にいる人だがいるなと感じるときに、もしかしたら、その子は、こんな風な「マーニーのいる世界」を見ているのかもしれないと想像することは、多分、お互いに生きていく上でとても楽になる考え方だと思います。

映画の彩香は、ちょっとオタクの入ったアクティブな女の子でした。

でも、本の方のプリシラは、ちょっと気むずかしい女の子としてかかれています。プリシラもまた少しかたよったところがある女の子なのだと思います。
彼女の家族は、プリシラやアンナを、いてもいなくても同じように扱います。それがとても、アンナを安心させる。
そういえば、下宿のおじさん、おばさんもそうですね。
まあ、映画では見てて、あんまりにも気にしなさすぎだろうとか、思ったりはしたのですが。
でも、そこに愛情がないわけではない。
見守ってくれているという安心感はものすごくある。
それは、この家が、子だくさんの家だからという感じで本では書かれていて、それは、確かにそうだなぁと。
ある意味、手がいき届かないからこそ伝わる愛情もあるのかもしれないと思ったりしました。

映画と本とどっちが好きかといわれれば、断然、映画なのですが、原作本のマーニーも、いろいろと生きることを考えさせられる1冊でした。

ちなみに、今までで1番衝撃をうけた、原作と映画で違う物語は、「私の中あなた」です。


クソ野郎ども

リアル13

プロレス、最高!!

だだ泣きです。

それは、多分わたしのどこかが今でもクソ野郎だから。
そして、いつまでも、ここにいはしないと叫んでいるから。

怯えながら。