はみだしっ子一覧

大好き

アリスと3人のふたご

山田ミネコの最終戦争シリーズが好きです。
これは、1970年代から延々と40年ぐらい続いているSFマンガです。同じSFマンガである「超人ロック」と同じく知る人ぞ知る息の長いシリーズです。
まあ、この時代のマンガってものすごく力が強くて、実は「ガラスの仮面」とかも、まだ、続いていますよねぇ。

わたしがこのシリーズを読み始めたのは、多分、80年代になってから。
中学時代ぐらいに読んだ「パトロールシリーズ」からです。

このシリーズ、放浪のマンガでもありまして、いろいろなところで連載が続けられています。
2000年代に入ってから、メディアファクトリーから、それまでいろいろな出版社からバラバラに出ていたシリーズをかなり網羅した文庫版がでました。

その記念すべき1冊目が、この本です。
このシリーズが刊行したことによって、わたしみたいな遅れてきた山田ミネコファンも、やっと、「最終戦争シリーズ」の全貌を知ることができました。
まあ、ただし、この本は、「最終戦争シリーズ」にはカウントされていません。「アリスシリーズ」というのだそうです。その「アリスシリーズ」の最後の1話だけが、「最終戦争シリーズ」とリンクしています。

「最終戦争シリーズ」、山田ミネコ先生が体調不良になったために商業誌連載が続けられず、現在は同人誌で小説として刊行されていて、20冊ぐらいまで出ています。

わたしは、この10年ぐらい、メディアファクトリーから続きが出ないかなぁとずっと待っていたのですが、音沙汰がないので、とうとう、この同人誌に手を出すことに決めました。
先日、山田ミネコの同人誌が、どっさり家まで送られてきて、今、メチャクチャ、テクションがあがっている状態です(笑)

で、今まで、「あ・そ・ぼ」で、山田ミネコのマンガの感想って、どんなこと書いていたかなぁと思って調べてみたら、「最終戦争シリーズ」の感想って1つもなかったのです。

ということで、これを機会に読み返して、感想を書こうと思い立ったわけです。

走れアリス

わたしが、山田ミネコおもしろいと思ったのは、中学時代に読んだ「パトロールシリーズ」ですし、「最終戦争シリーズ」を読み始めるのは、さらに後の大学時代、秋田書店から出ていたプリンセス・コミックスのシリーズからでした。

秋田書店のコミックスを読むと、このプリンセス・コミックス以前に出されているこのシリーズは忘れてくれ的なことが書いてありました。
わたし、小学校時代から少女マンガを読み始めていて、そのころ花とゆめコミックスとして並んでいた、「最終戦争シリーズ」というのは、よく見かけて知っていました。今はなき、浜大津の駅の近くにあった浜書房の2階に置いてあったのです。
でも、その当時は、ものすごく気になりながら、絵柄に抵抗があって手を出していなかったのです。

まあ、気になっていたのは、「自我系の暗黒をめぐる銀河の魚」とか、「西の22」とか、題名がなんとなくかっこよかったこともあったと思いますし、あの頃の「花とゆめコミックス」で、背表紙に小さい字でシリーズ名が書かれていたマンガって、「シルクロード・シリーズ」や、「はみだしっ子シリーズ」で、どれも特別におもしろくて、それと同じ感じのマンガだということで気になっていたわけです。

で、秋田書店の「最終戦争シリーズ」を読んだ時に、メチャクチャ後悔しました。
なんであのとき、「花とゆめコミックス」の一連のマンガを購入していなかったんだろうかと。
もう、その頃には、絶版になっていました。

で、まあ、秋田版の「最終戦争シリーズ」の前に、基本になる物語がいくつかあるということは知っていたのですが、アリスシリーズというのは知らなくて、最初この話を読んだ時は、ちょっとびっくりしました。まず、この話自体は、まったく「最終戦争シリーズ」とは関係ない感じですから。たしか、このシリーズって、「最終戦争シリーズ」が文庫で出るよと聞いて読んだのです。

スクラップスティクなコメディですが、これ真面目にかいたらけっこう重いストーリーをなかに含んでいます。そして、絵の中には、人間のドロドロとしたところや、あとの「最終戦争死リーズ」に繋がるような魔物的な描写もあっておもしろいです。

女の子が、とっても元気で良いです。わたしは、山田ミネコのかく元気な女の子が大好きです。

消えた宝石

第2話で、スクラップスティク色がだいぶん消えているような気がします。コメディではあるけれど、ちょっとハードになってきました。作者的には、ミステリー寄りにシリーズを持って行きたい感じですねぇ。

そして、コメディでありながらも、どうしようもない世界をかいています。

アリスと3人のふたご

このあたりから、等身をちょっとずつ上げている感じです。
主人公ではなくて、周りのキャラクターにスポットがあたっていく感じは、これから先の山田 ミネコ作品をなんとなく彷彿させます。まだ、キャラが勝手に動いて暴走していく感じまではないですが。

「3人のふたご」っていうのは、いい題名ですよねぇ。「エミールと3人のふたご」という元ネタはあるもののそれをもっているセンスが素敵です。

ラストシーンまで、ほぼ完璧に出来上がった1作だと思います。

夏がどこかへいった

回想の物語である「夏がどこかにいった」は、もう完璧にコメディの色はないです。
初期の萩尾 望都や、竹宮 惠子と同じ香りがします。

そこでかかれているのは人の心の深淵で、それは、他人だけではなくて主人公であるアリスの心、8歳の少女の心にも容赦なし。

少女マンガが、24年組によって文学にまで高められた時期の作品です。

最初の1コマ目のアリスが、今の絵柄に見えるのですが。
実はわたしは、途中で終わっている「月読の剣」が凄い好きで、あの目の大きな鳩子ちゃんの顔が大好きなのです。あの鳩子ちゃんとよく似た顔でよいわぁ。

黄金細工の部屋

殺人事件。
アリスと仲間たちが、謎を解いていきます。完全にミステリー。

完璧ではない、それどころか悲しさで壊れていく大人をかいていきます。

前の話で、鳩子ちゃんそっくりのアリスがかいてあったのは、もしかしたら、文庫化したときに追加でかいたイラストかも。だって、この話では、最新作1の同人誌「パトロール伝説」の宣伝がされています。元は、コミックスかなんかの宣伝のスペースだったのかな?

馬に乗った幽霊

メガネを取ったら……パターンですが、ネコさんの場合は男の子です。それも、2回続いて(笑)
まあでも、こっちは、メガネをかけていないと成り立たない感じの話ですね。顔を隠すところにちょっと意味があるから。

お祖母さんの困った癖そのものが、これで直るのかどうかはちょっとわからないのですが、騙しているという感じが、お話の最後でちゃんと解消されているところはポイント高いと思います。

誰かが殺した

「誰かが殺した」っていう、題名が凄いです。
もう、少女マンガの題名としては、あり得ないだろうと思います。

そして、登場人物が、少年や少女から、青年や娘に、だんだんと成長してきているというところが、なんともうまいです。
こういう成長を1番上手くかいた人って、三原 順かなぁと思うのですが、山田 ミネコもそれに負けていないと思います。「最終戦争シリーズ」みたいに、人が不老不死になっちゃった世界でも、ジャッカルとか子どもはちゃんと成長していて、ハッとします。
しかも、このお話の中で、山田 ミネコは、男の子と女の子の成長の早さの違いまでも、ちゃんとかいていています。

それから、ハゲ頭好きは、このあたりからあったのかな。

男爵夫人・ラム

「男爵夫人・ラム」は、アリス・シリーズの最終作にして、最高傑作です。
まあ、実はもう1つこの後に「妖魔の森」が入るのですが、あちらはアリスが主人公というわけではないですからねぇ。

ここで、アリスは自分の最大の敵を認識します。多分これ、「夏がどこかにいった」をかいた時から、構想していたんだろうなぁと。
この後、いろいろな事件に遭遇しながら、すれ違ったり、直接対決したりするアリスとジルっていうのを見たかった気がします。多分、かかれていなくても、そういう人生を送ったのだと思います。
そして、デーヴァダッタになったジルと、時間移民したアリス&ディックと永遠に戦い続けていたりして。

グリンダって、後で最終戦争シリーズに出て来た??あれは、デーヴァダッタだったような記憶があるので、違うのかな。

妖魔の森

「最終戦争シリーズ」の始まり。
まだ、デーヴァダッタとかまったく出て来いないのに、題名が「妖魔の森」というのが、なんていうか暗示的です。

アリスが主人公というわけでないので、今までのシリーズとは、ちょっと毛色というかトーンが違う感じがあります。

パトロールは、黒髪長髪なので、「小角か?」と思ったけど、目つきがちょっと違うか?

  1. この本が出た当時ね []

勇気

青い花7

次の巻で完結。
ラスト1巻までやってきました。

主人公たちも、高校3年生。
そして、この巻見てて、性格だけではなくて、姿形も、みんなちゃんと成長しているのを感じで、すごいなぁと思います。

けっこう、マンガのなかの成長って難しいのです。
特に、子どもの時代って、1、2年で別人かと思うほど姿形が変わっていく。
でも、変わらない部分もある。

2、3年後に突然出てきて、

「かわったねーー」

とか、

「かわらないねー」

というのは、ある意味、簡単なんですけども、このマンガみたいに、連続している中で成長させるというのは、けっこう難しいと思います。

「はみだしっ子」とかは、確かに成長していたと思います。
そのレベルのマンガだと思います。


10月湖畔のゲーム会 その1 そして、いつもの長い導入!

えーと、今年2005年度の4月から、「湖畔のゲーム会」のメンバーに入れていただいています。
なんせ、「湖畔のゲーム会」の定番会場となりつつあるゲームハウスのオーナーですので(笑)

今回は、「湖畔のゲーム会」なのですが、何人か、ゲストの方も。

まずは、ご夫婦と赤ちゃん。
こちらは、湖畔のメンバーの方ではなくて、ねぇさんのお仕事関係の方とその旦那さんです。1歳半の赤ちゃんを連れて、新しい家の探検がてら来てくださったようです。
ということで、ゲーマーではない人なのだそうです。でも、なぜか、「スコットランドヤード」は、知ってるというか、持っているらしい……。さすが、ねぇさんの知り合い。
わたしの知り合いは、この前酔っぱらってやって餃子とチーズバーガーを持って来た人たちですが、

「うわー、ぼくも、相当マニアックな世界知ってるけど、この世界は知らんわ~」

てなことを言っておられました。
マニアックな世界を知っている……大丈夫でしょうか??わたしは、知りませんよ。そんな世界は!!

もう1組のゲストも、ご夫婦と子どもさん。というか、えーと、われらが「湖畔のゲーム会」のリーダーにして、「静かな湖畔の紫の牛」の管理人さんの和邇乃児さん(は、もちろんゲストではなくて)と、その奥様と、その子どもさんデュエルマスターたけちゃんです。

そういえば、たけちゃんは、和邇乃児邸でやった「湖畔のゲーム会」の時にも、お兄ちゃんのまーくんとともに参加していました。
そのうち、「湖畔のゲーム会」の正式メンバーになるのかも。
彼は、小学1年生にして、あの理論家の和邇乃児さんを「ラミィキューブ」で負かしてしまうという末恐ろしい……いえいえ、末頼もしい少年です。

赤ちゃん連れのご夫婦とたけちゃんは今回はゲームを遊びに来られたのですが、和邇乃児さんの奥様の目的は、別にありました。

それは、ゲームハウス2階図書館(笑)
すいません、蔵書の半分しかまだ入っていないのですが……あと半分は大津の実家に。
それでもいいので、ちょっと見せてということで。
なんか、ものすごいマンガが好きだったのだそうで、この前は、「はみだしっ子」を全巻借りて帰られました。

えーと、まずは、お宅見学ということで、家をまわっていたので、なかなかゲームが始まりません。

湖畔のメンバーの方は、あと1人こられていたのですが、この日は、競馬が忙しい(?)とのことで、午前中は、ずーーーっと、携帯とにらめっこをされていました。
↑ 午前中、ゲームに参加せず(笑)

まあ、家をみんなで一巡りがおわりました。
わにのこさん、たけちゃん、ご夫婦、ねぇさん、わたしは、ゲームをするために遊びマットの上に。
和邇乃児奥様は、暖房もない2階図書室に。
あと1人は、携帯をいじりながらカウンターに座って。

それぞれが位置について、さて、ゲーム会の始まりです。


なねが恋ふれぞ 夢にみえける

星の時計のLiddell1

「空の色ににている」を読んでから、もう1回読み返そうと思っていた「星の時計のLiddell」全3巻を読みました。

以前読んだときは、ストーリーを追っていくことが出来ず、なんだか登場人物たちの話す難解なセリフのなかに大切な話が入っているのかなぁと思っていました。

さて、今回、「はたして理解できるのか?」という疑問をもちながら読み返したのですが、なんと、自分のなかでストーリーがスーッと通りました。
ただし、自分のなかで通っただけで、それが人のストーリーとあわせてみて、正しいのかどうかというのは、わかりませんが……。

えーと、映画で「ミツバチのささやき」というのがあります。
これは、とても好きな映画で、これまで3回ぐらい見ました。そして、いっつも、わたしはすごくおもしろいと思っているのに、途中で眠ってしまいます。
この映画、不思議なことに、ストーリーを語り出すと、わたしの語るストーリーと兄貴の語るストーリーと映画の紹介文のストーリーでは、全然、別の話になってしまいます。

これは、例えば、「『はみだしっ子』で、なんで、グレアムがあんな行動をとったか?」みたいな登場人物の心理に関して解釈が違うというようなものではなくて、本当に、受け取った物語のストーリーそのものが、全然、別個のものになっているというキツネにつままれたような経験です。

そして、多分、この物語も、受け取る側によって、ストーリーそのものが変わってしまうような微妙な部分があるような気がします。

まあ、「空の色ににている」を読んだときほど、これはわたしに向かってかかれている物語だと強く感じたわけではないのですが。
そのあたりは、この物語が再読であることなども、もしかすると関係しているかもしれません。

少女マンガは、何回も読んである瞬間スーッとストーリーが理解できる瞬間というのがあります。
これは、こっちの成長が、少女マンガに追いついたということなのだと思います。
1番最初にこの経験をしたのが、萩尾望都の「トーマの心臓」でした。
少女マンガには、物語のなかで語られていない(というか、成長しないと見えてこない)「ブランク」があって、しかも、その部分が物語の核心の部分とつながっていたりします。
「星の時計のLiddell」も、今回読んでみて、

「あぁ、以前は、ここがひっかかって理解できなかったんだろなぁ……」

という部分が、たくさんありました。

それから、ビックリしたのは、書かれていることの新しさです。
例えば、睡眠時無呼吸症候群なんてのは、最近では、日常的に聞くようになりましたが、この当時からあったんだ。
西洋人と日本人の言語における脳の使い方の違いも、わたしは、つい最近、ニュースで知ったばかりのことです。

書き始められたのが、1982年。今から、22年ほど前なんですよ。
ものすごく過去を指向していく物語のようでありながら、その目は、未来に向かっても開かれているのがわかります。

今回、わたしの持っている本を見直してみると、1987年10月25日 第8刷発行となっています。
まあ、発行されてすぐに買ったかどうかはわからないのですが、本自体は、今から、17年前に出されたようです。

前にここにこの本のことを書いたときは、「大学を卒業して大人になってから読んだはず」と書いていましたが、もしかすると、高校、大学ぐらいでこの本に出会っているのかも。
「好み」そのものは、もうこれぐらいの年齢で完成されていた気もしますが、このころなら、まだ理解できなかったのもわかる気がします。
なんというか、考え方そのものは、この頃にかなりできあがっているのですが、この後、自分の情報収集能力というのは、飛躍的にのびている気がします。
まあ、のびているのが、情緒面ではなく、そういった能力的な部分であるというのは、かなり情けないことではあります。

さて、物語は、「幽霊になった男の話をしよう思う」というナレーションからスタートします。
そして、語り部であるウラジミールが、街に戻ってきます。
街に戻った彼は、その街にすむ友人のヒューとお酒を飲み交わす。
ヒューは、まるで、ウラジミールが2年間もその街にいなかったことなど気にしていないように、まるできのうも出会ったかのように彼を受け入れる。

わたしを混乱させる罠は、しょっぱなから張ってある。
実は、ウラジミールは、とっても現実的な人間で、一方、ヒューは、夢想家です。

旅に生きる人間は夢想家。土地に落ち着いて暮らしている人間は現実的。
多分、そんな刷り込みが、以前読んだときは、この2人の性格を誤解させたのだと思います。

そうか、旅から帰ってきたのは、ヒューじゃなくて、ウラジミールだったのか。

今回、読んでみて、そういう印象の違いは、たくさんありました。

えっ、葉月ってヒューの彼女じゃなかったの?

とか。
ション・ピーターのピュアな部分というのは、何となくヒューのような主人公が持ってるべき資質だと思っていたのかもしれません。

そう。わたしは、単純な「物語とはこういうものだ」という常識に囚われすぎていてたようです。

でも、それらは、登場人物たちをとっても厚みのある生身の人間(というと少しニュアンスが違うかも。リアルな?これも違うか)にしています。

メインのヒューに向かう物語とは別に、登場人物は1人1人それぞれの物語ももっていて、それが、同じ重さで物語のなかで語られたりすることがあって、どっちに属する話なのかが混乱してわからなくなってしまっていたようです。

例えば、葉月は、恋人のジョン・ピーターには見せない(見せるときっと彼を傷つけてしまうと感じている)一面を現実主義者のウラジミールには見せたりします。
そういう話が、めちゃくちゃさりげなく入っていて、人物を浮き立たせています。

ヒューは、古い夢を見て、夢に惹かれています。
何度も、何度も繰り返される夢。夢のなかの彼は、とても、幸せそうです。

でも、現実の世界の彼が、不幸そうかというとそんなことは、全然ない。
わたしには、夢のなかの彼と同じように、自然体で幸せそうに見えます。
このあたりは、他の人と解釈が違うかも。

でも、ヒューには、「いつか自分が向こう側に行ってしまう」という予感があったのかもしれません。
その「予感」をウラジミールや、ヒューの母親は、「死の予感」と感じたのではないかと思います。
そして、葉月たちにとっては、それは、「未来への予感」。

だから、彼が、どうしても、「あちら側」に行かなければならないと思ったのは、「あちら側」の人間であるリデルが彼を呼んだからではないかと思うのです。

ヒューは、世界中にあるものをすべて等価に愛する。
これは、本当は、ヒューではなくて、「草迷宮・草空間」の主人公の草が、友だちに言われていた言葉だと思うのですが、多分、ヒューもその解釈で間違っていないと思います。

だから、ヴィとはつきあっていた(?)というもののそれは、

「彼女がヒューを必要としていた」

からであって、彼女が自立して、ヒューを必要としなくなった(?)とき別れを切り出されても、それほど取り乱したりしません。

もちろん、彼女のことを心配しているのですが、なんとなくそれは、誰にでも向けられる思いのような気がするのです。

そして、そんなヒューに対して、ウラジミールは、心理学など現実的なアプローチで、ヒューに迫ろうとしています。
そして、多分、そのアプローチでは、ヒューの見ているものを本当に理解することは出来ないのだと思います。

以前は、ウラジミールが何を調べているのかということも、何で調べているのかということも、ちっとも理解できていませんでした。
ウラジミールの趣味か?とか思っていたようです。
そして、ウラジミールは夢想家という誤解な刷り込みが、どんどんなされていくという。

あと、今回は、「相手が思いをかけているから、その人が夢の中にあらわれる」といセリフは、つい最近読んだ本の「手のとどかないものは、こちらが一方的に焦がれているものとは限らないよ。あの星は、おまえに思いを寄せているのさ」というセリフと自分のなかでは、ぴったりと重なって、ちょっとビックリしました。

こういうことがあると、今、運命的に(というとオーバーか)正しい時期にこの本を読み返したのだなぁと思います。


空のなかの千の色

空の色ににている

多分、わたしが気に入るだろうということで、貸してもらったマンガです。

内田善美のマンガは、以前に何冊か読んでいて、特に市松人形の「ねこ」のでで来る「草迷宮・草空間」というお話は、お気に入りで何回も読んでいました。

その後、りぼんマスコットコミックスから出ている「星くず色の船」と「秋の終わりのピアニシモ」なんかを読みました。
これは、すごく密度の濃い絵を描く人なので、新書版コミックには向かないなぁというぐらいの感想しか、もっていなかっのです。

そして、「星の時計のLiddell」というマンガを読んだわけです。
多分、この「星の時計のLiddell」は、大学を卒業して大人になってから読んだはずのマンガです。

わたしは、幼少の頃から、マンガ読みをしておりますので、少年マンガだろうが、少女マンガだろうが、自分に理解できないマンガはないだろうと自負しておりました。
もちろん、「はみだしっ子」なんかは、今読んでみると、どう考えても当時の理解は間違えだったということが判明しているマンガもあるのですが、それでも、その年齢なりの理解はできるだろうと信じていました。

でも、「星の時計のLiddell」は、そんなわたしにとっては、めずらしく理解できないマンガだったのです。しかも、大人なのに(笑)
「理解できない」というと、いろいろな意味にとれてしまうのですが…。
他のマンガでも、「何でこんなことするんやー」という理解できない登場人物というのはいたりするのですが、そういうこととは違うのですよ。

わたし、この全3巻もあるマンガのストーリーを全然、追いかけられなかったのです。
で、その当時のわたしの理解が、ストーリーは、どうでもいいことを追いかけていて、実は、登場人物同士の会話のなかに、なんか本当のことが隠れているのかなぁ……。というもの。
これが、あっているのかどうかも、わかりません。
↑ なんせ、ストーリーが全然わかっていないから。

まあ、オーバーなお話ですが、このストーリーが追いかけられないというのは、けっこうトラウマになっていて、そのあと内田善美のマンガというのは、全然、読んでなかったのです。
似たような現象は、こなみ詔子の「タイルの水」を読んだときにもなりました。

ということで、「空の色ににている」も、辛そうだったらちょっとずつ読もうとかいうけっこう消極的な態度で読み出したわけです。
ちょっとずつ読もうと思っていたから、時間も、けっこう夜遅く。

気に入るというか……これは、どっぷりはまってしまいました。
というか、はまりこみすぎて、混乱して、なんというか感想というか、感情というか、そういうものが、グルグルとまわった状態になって、その夜は、眠れなくなってしまいました。
これは、一気読みしてしまうマンガではないですね。

最近読み始めた「彼氏彼女の事情」とかも、すごくおもしろいて先にを読みたくなるマンガなのですが、「空の色ににている」は、そういうのとも、ちょっと別格なマンガです。

感想を書こうとしているのですが、ひとつは、まだ興奮と混乱がおさまらないということもあり、もうひとつは、なんだかこの話のことを語るのは、あまりにも自分のプライベートなことを話すような気がするのです。
なんというか、この話は、わたしに向けてかかれた話だ、という印象がとても強く感じられるのです。

もちろん、わたしがこの主人公たちのような柔軟で、繊細な心を持っているという意味でも、この主人公たちに似ていると思っているわけでもないのですが……。

それでも、これは、自分にむけられたメッセージだと感じてしまうのは、なんでなんだろう?

実は、冬城の失踪の真相(?)は、天然系の2人が思っているような理由ではない気が、わたしにはします。
でも、なぜか、いつものように、「あれは実はこうだったんだとわたしは思うよ」というように、自分の考えを出していく気がしないのです。

なんか、2人がそう思っているのなら、それでもいいのかなぁ。
そうやって、「世界」は出来ていくのかなぁ。
と、そんなふうに感じます。
この2人みたいに、世界を感じ取れるようになりたいと思っていて、そうなれない自分のことも理解しています。

ただ、「そうなれない自分」を否定的に見るのではなくて、そんな自分すらこのお話に肯定されているような気がします。

なかなか、書きながらもどかしいです。言葉で伝えにくいので、これは、この文章は、思っていることの輪郭だけというか、周辺だけをグルグルまわっている感じがします。

ただ、1つ言えることは、このお話に出会えてとってもよかったということです。
そして、多分、この年齢の時に、このタイミングで出会うことがなかったら、これほど、心を揺さぶられることもなかったのだと思います。

むかしは、「作品」というもう評価の決まったものがあって、自分がそれにアクセスしたときに、それがわかるのかと思っていたのですが(少なくとも、自分のなかの評価というのはそれほど年とともにかわるものではないと思っていたのですが)、実は、そうではないようです。
どんな精神状態だったか?それまでにどんなお話と出会ってきたのか?どんなきっかけで、そのお話を読むようになったのか?買ったか?借りたのか?だれに借りたのか?
その時々の自分の状態によって、多分、少しずつ、ときには大きく、そのお話に対する自分の想いというのは、かわってくるです。

そして、そのお話をうけいれる1番ベストな状態なときに、ぴったりとはまる物語を読むのは、とても幸福なことです。

さて、1度、以前は挫折した「星の時計のLiddell」を読み返してみよう。