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かぐや姫の物語

あぁ、これかぁ。
大塚 康生が、あの本で書いていた日本独自のアニメの動きというのは……。
アトムじゃない動きというのは……。

あの文章よんだだけではイメージできなかったけれど、ジブリの人は、日本のアニメの「動き」の表現を本当はこっちに持って行きたかった。
その動きの凄さ。

まずは、それが第一印象。

それから、ストーリー。
高畑 勲のすごいところは、多分、その原作へののめり込みの深さと理解の深さ。
見えないところをみせてくれる。でも、それは元々、あくまで原作にあったものなので、その凄さはわかりにくいのかも。

だって、ビックリするほど「竹取物語」なんですよ。でも、「竹取物語」を読んだときって、ここまで、いろいろなことを考えたりしない。
実は、けっこう原作から離れている部分もあるのですが、それでも、「ビックリするぐらい竹取物語」だと感じさせるところもすごいのかも。

多分、それは、「じゃりン子チエ」のときでも、「火垂るの墓」のときでも、同じことが起こっているのだと思います。

そして、これが、ものすごい高畑 勲の才能であり、また、原作をつぶして自分の主張に持って行かない高畑 勲の限界なのかも。
その「限界」そのものが「才能」であるような気もしますが、オリジナリティが大切とされる今に置いては、あまり評価されにくい。
というか、「それ知ってる」……とか、「それ知ってた」っていわれるのかなぁ。
ストーリー的な驚きは、ほとんどない。

というのが、高畑 勲に関して考えた話です。

で、「かぐや姫の物語」の話です。

すごい、切ないお話です。
天人であるかぐや姫と地上の人のお話です。

かぐや姫は、地上に憧れたために、記憶を封ぜられて地上に堕とされた天人です。
映画のパンフレットとかを見ていると、無理矢理堕とされたというよりは、かぐや姫がものすごく地上に憧れた。
それが罪。

そして、地上に降ろされた。
もちろん、その時、天人に「お前は穢れだから追放」とか思っているのではなくて、「心配やわぁ。でも、そこまで言うのなら行っておいで。いつでも、助けてあげるよ」というもののようです。
まぁ、多分、天人って、基本、そんな厳しい感情はもってないような気がします。

というか、地上にある喜怒哀楽、振れ幅の大きな感情のすべてが罪なのかも。
そして、その揺れ幅の大きさ故に、姫は天人のなかでは異端であり、ものすごく地上に憧れたのではないかと思えます。

そして、その憧れた強い感情は、でも、天人にとっては毒にしかならない。
いかに毒にしかならないかということが、延々と綴られていく。
自然や、物事は、姫を傷つけたりしない。
ただ、人の心だけが、好意さえも姫を傷つけていく。

それは、地上の人にとっても同じ。

姫は地上に憧れて傷つき。
地上の人は、姫に憧れて傷つく。時には、命をなくしてしまう。

お互いに憧れながらも、どうやっても相容れないんだよということが、映画のなかで延々と語られていきます。
幸せだったのは、生まれてからの少しの子ども時代、村で過ごした時だけ。

最初は、翁が、姫を都につれていき、都で立派に育てようという思いをもつ。
それは、姫のことを真剣に思ってのこと。
だって、翁が都に行くまで、ずっと悩んでいるんですよねぇ。なにが、姫にとって1番か?天がなにを望んでいるのかを。

多分、天にとって地上での栄達は、なんの意味もないことなのかもしれないけれど、地上の人である翁は、天に答えるために最高の人生を与えたいと思ってしまう。

でも、それは姫にとっては、負担でしかない。
翁が、なぜそんなことを言い出しのかを理解することができないし、自分の心に背いて生きることにしあわせを感じることができない。

そこには、かぐや姫の成長が早すぎたために、反抗期をもてなかったという悲劇もあるのだと思う。
本来なら、「大好きなととさま」から、だんだんとアラもみえてきて、反抗期があって、また、見直してみたいなステップを踏めるのだが、いっきに大人になってしまったために、「大好きなととさま」のまま、翁の困った部分を受け止めきれない。

翁だって、姫がきれいだから愛したわけではないと思う。
でも、姫が美しいから、その天が与えた美しさや、その姫のために竹につめて送られてく金銀財宝に見合った生活をさせるために(あくまでも、自分がするためではなくて、姫にさせるために)都に行こうと思った。

天は、金銀財宝は、ただの姫の養育費の仕送りのつもりで送っていただけで、その金が、どんな不幸や混乱をおこそうが、それは、汚き地上のことなので、まったく気にしていない。
その価値観の違いが、また、悲劇。

そして、都では、その天人である姫の美しさ、完璧さが、また人々を不幸にしていく。

貴族なんて、何不自由ない人間ですら、姫をもとめて不幸になっていく。

それは、貴族だからおこることではなくて、捨丸ですら、姫に誘われたら、妻子を捨てて飛ばざるを得ない。人生メチャクチャになります。

でも、それに対して、姫が少し罪悪感を感じることはあっても、どうして、そういうことが起こるのかを理解することはない。
あくまでも、姫は、自然のままに生きている天人だから。

翁と媼だって、物語の上では見せてないけれど、多分、慣れない都の生活で、神経をすり減らした筈。
なによりも、1度手に入れた玉を、手放さなければならないのは、身を切られるよりも辛かったはず。

そして、この物語の怖いところは、そういう天人と地上の人との間の理解できない関係って、実は、この世界で、ごく普通に起こっているとても、ちっさなことだよねということをかいていること。

男女の違いや、世代の違い、生まれの違いで、簡単に起こっていること。

いいこと、うれしいこと、それから悲劇、全部ひっくるめて、「世界」ってこうだよねと示している。
しあわせもたしかにあるのだけれど、それと同時に、どうしようもない現実もある世界。
その中の「しあわせ」の意味や価値は、全部、自分で考えていきなさい。
そんな風に、突き放した映画だと感じました。

この映画を見ながら考えていたのは、天人が罪で天上から落とされて、罪を償って帰って行くといこと自体が、自然の中にあるシステムなのかもしれないなぁということ。
そのシステム自体には、もしかすると深い意味がなくて、四季の変化みたいなものなのかもしれない。

無粋だけど、そのシステムに理屈をつけるのなら、長い時間が過ぎると、天人にも、少しずつ汚れが生じてしまう。それは、実は、天人の個人的な問題ではなくて天上の世界全体の問題として。
天上では、その汚れをすべて少女に背負わせて、その子が、地上で生きる(わがままを言ったりする)ことでその汚れを浄化しているのではないか。

地上も、罪人といえども天人である姫を受け入れることで、ちょっとだけ浄化される。

その繰り返しが、延々と、天上と地上の間で行われている。
そういうお話だったのかも。

今まで、「火垂るの墓」と「じゃりン子チエ」以外の高畑作品って見てなかったのだが、ちょっと見た方が良いかも。

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風立ちぬ・美しい村

えーと、映画の「風立ちぬ」見てきました。
見た、最初の感想は、

「なんじゃこりゃ?」

でした。

その日書いた感想のメモは、こんなことが書いてあります。

「宮崎 駿の自分の人生、全肯定物語?なっとくいかん」

「なにかを作るこということはあきらかに呪い。何もかもなげだしてでも『作る』しか選択肢なし?」

「たとえば、菜穂子が途中で嫌になって、二郎をののしって退場しても、二郎の人生自体はかわらないんじゃ…」

「2人の姿を美しいとは思えるし、泣ける。1もしかして、それに違和感を感じている自分がイノセントではないのかもしるれない…」

「映画のパンフレットで、宮崎 駿がかいているように、これは二郎という個人の物語であって、菜穂子の物語であったり、2人の物語ではない」

「二郎は、周りがどうであれ、恋人がどうあれ、ただ自分の夢を追い続けていく。ひでえ。そして、そうやってつくったものが、人にとって善だろうが悪だろうが、ひたすら、思いついたままに邁進する」

「そして、そんなやつばからなら、いつかこの世界は核で廃墟になる」

「子どもにおかし。偽善の否定。矛盾した存在。やらずにおけない?」

「妄想、妄執と、美しい夢は、どこが違う?」

「善でも悪でもないことを賛美してもいいのか?でも、それは非難されるべきことか?」

「夢を追う人とアル中はどうちがう?死ぬまで自分中心にやっていくだけだろう?」

われながら、大混乱ですな。

映画としてのエンターテインメントな楽しさはないです。

その証拠に、小学生低学年ぐらいの女の子が、映画の途中で退場していました。すくなくとも、子ども向けの映画ではない。
でも、なにか心に残る映画だ。
そして、ものすごくいろいろなところが、引っかかる感じがする。

それは、あんまりにも二郎にとって都合のいい菜穂子の存在。

考えて出てきた感想は、「要するに、天才はなにをしても、周りを巻き込んでメチャクチャなことをしても許されると?そう、天才・宮崎 駿は、いっていると?」そういう反発。

でも、その反発の中にも、なんかモヤモヤしたものが残っている。反発しながらも、なんか、それだけではないものがある。
なんだろう?映画の中の二郎は、本当に穏やかな人なんだけれど、メチャクチャ自分勝手な人でもある。自分のやりたいことしか見えていない。

初めて会ったときから好きでした的なことは、あきらかに口からでまかせだし、その後、菜穂子の命をすり減らしたこともそうだし、本当に、あの後、1回も菜穂子のお見舞いなんて行っていないんだろうなぁと思います。
そして、それは多分、宮崎 駿なら、もっと上手にいい人ぽく誤魔化せたはず。

なんで、そうしなかったんだろう?
多分、わざとだ。

他の人がどう見たのか、人の感想がこんなに気になった映画ってあんまりない。
そして、多分、この気分というのも、わざとそうなるように作ってある気がしたのです。

で、いろいろなブログの感想を見たりしていたのですが、小説を書いていたり、アニメをつくっていたりと、ものをつくっている人は、大絶賛していることが多いですね。
絶賛でなくて、俺にはあんな生き方はできない。でも、あれが理想なんだという人もいた。
何か、必死になって産みだしていく人にとっては、確かに理想的なお話なのかも。

そう考えると、自分がなんだか、嫌な気分になったのは、そういうものを作る仕事をしていないことに対するコンプレックスもあったのかもしれない。
でも、ものづくりのすごさだけをかくのなら、菜穂子、要らないよね。
多分、あの自主勉強会の若い活気だけでも、プロジェクトX的な感動的な映画はできたと思う。

なんで、菜穂子がでてきて、なんで、菜穂子にあんなひどい仕打ちをしなければならないのか。しかも、二郎自身は、ちょっとは感じているかもしれないけれど、それでも、映画を見たぼくらほどには罪の意識を感じていない。

はじめみたときは、この二郎という天才(宮崎 駿という天才)を、全肯定してほしいのか?
お前は、それ以外の生き方を否定するのか??

みたいな感じで反発したのですが、多分、これ、そうではない。

これは、ひどいやつだけれど、こうとしか生きられないそういう姿を書いた物語なのではないか?
そう思ったとき、フッと腑に落ちるものがありました。

そう、ここで二郎は、否定も肯定も実はされていない。ただ、そうとしか生きられない存在としてかかれている。
多分、ぼくらが、天才として生きられないのと同じように、二郎は、仕事には熱心に、でも女の子に対してはとても気になりながらいい加減にしか接することができない。
彼が肯定も否定もされなければ、ぼくらだって否定も肯定もされていない。

彼は、正直に生きた。それは、多分、そうとしか生きられなかっただけ。そういうことなんだと思います。

そう気づいてみると、もう1回見たとき、いろんな枷が外れて見ることができるかもしれない。もう1回見てみたいです。映画館じゃなくていいから。

もしかして、普通に感動できる人って、そういうグルグルまわらずに純粋なのかもしれないと思います。
まあでも、ぼくは、こうとしか生きられなくて、グルグルまわるんだろうなぁ。
そんな自分がいやになることもあるけれど、絶望しないならいいのかもしれません。

ということで、映画を見た後、堀 辰雄の「風立ちぬ」と「菜穂子」も読んでみようということで、ついでに、堀越 二郎の本も読んでみようということで購入。
まんまと、のせられていますね。

いや、「風立ちぬ」は、昔読んだことがあるはずなのですが、たしか、映画とはまったく逆の話だったよなぁと確かめたくなって。

そして、この本読んでみましたが、記憶通り、映画とはまったく逆の話でした。死ぬまで恋人のそばについてあげる話。
でも、これ読みながら、もし堀 辰雄が、映画「風立ちぬ」を見たら、怒るかな?とも考えてみた。
多分、怒らないのではないかなと思った。
それは、やっぱり、堀 辰雄が、なにかをつくる人だから。
まったく別の物語のなかに、なにかをつくるということの怖さというか、狂気みたいなものは、あるような気がする。

この解釈が正しいのかどうかわからないです。
かなり、映画「風立ちぬ」に引っ張られていることは確かです。

でも、そんな風にひっかかって、誰かに話したくなる映画というのは、多分、名作です。
本屋で堀 辰雄「風立ちぬ」がベストセラーに入っているんですよ。
多分、ここに堀越 二郎が出てくる映画の原作本だと思って購入している人は、少ないと思います。きっと、わたしと同じ様に映画を見て引っかかった人もいっぱいいたのかなぁとか思って、少し不思議な感じがします。

そんな人たちの感想もいっぱい聞きたい。そんな映画でした。

  1. 涙腺は緩い方です []

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アメイジング・スパイダーマン

「アメイジング・スパイダーマン」の映画をみてきました。
えーと、いくつかの映画が、感想書かないままながれてしまいました。

アメコミ系では、「キャプテン・アメリカ」。邦画では、「テルマエ・ロマエ」。そして、ボードゲームファン必見の(笑)、「さあ帰ろう、ペダルをこいで」などなどでした。

どれも、楽しい映画でした。
特に、「テルマエ・ロマエ」は、もっと地雷な映画だと思っていましたが、そんなことなかく楽しめました。

ということで、「アメイジング・スパイダーマン」です。

良かった。
でも、若干、最近のマーベルの映画の水準からするとスキが多かったかも。
というか、最近のマーベルの映画が、スキなさすぎな気がします。

わたしは、MJよりグウェンが好きなので、そこは良かった。
新生ピーター・パーカーは、ちょっとイケメン過ぎの気もします。いきなり、スケボー乗って、オメーは文系ナードじゃねぇのかよ。
まぁ、ずっと前のスパイダーマンも、キャプテンアメリカも、そのパターンだったので、いい加減もういいやという思いもあったのかも。

今回は、ずっと高校時代のスパイダーマンを追いかけていきます。大人の悲哀は、少なめ。
でも、ずっと高校時代に設定したことで、彼の軽さや、現代っ子的なところ(はたして、スパイダーマンは現代っ子かという問題はありますが、イメージとしてのヒーローになりきれていない感)は、すごく表現されていてよかったと思います。

グウェンとの絡みは、よかった。
グウェンかわいい。
元々、グウェン派(あるのかそんな派閥?)なので、よけいにそう感じるのかもしれませんが。

これ、前作の1作目では、MJに対して、

「スパイディが好きなの?ピーターが好きなの?浮気?」

みたいなモヤモヤ感があって、そのあたりはものすごく改善されています。
今回、グウェンが惹かれるは、ピーターなんです。
まぁ、グウェン、天才じゃなくてもいいじゃんと思ったけど、最後のシーンにつなげるのと、出会いのためには、やっぱり天才の方が良かったのかな?
もともと、原作でも天才でしたっけ?あんまり、その記憶はないや。コミック新潮で出ていたスパイダーマンのグウェンは、魅力なかったのを憶えていますが。

跳べないヒーローである彼に奇跡が起こるシーンは、やっぱり名場面です。
でも、あのシーンを出すためには、子どもをたすけるシーンだけでは、弱いと思うんです。
もっと、世間的にスパイダーマンが注目されて、彼が、いい人か悪い人かが議論されているシーンがあって、はじめて生きてくるシーンのような気がします。

でも、それも前作の映画でやっているので、あえて省略したのかも。

最後は、どこに着地させるのかなぁと思っていて、

「えーー!それは、いかんだろう!!」

と思わないでもなかったけど、そこでも、彼は学生だということがきいている気がします。
まだ彼は、大いなる義務を背負わなくてもいいよ。 そんな感じ。
あのシーンのグウェンの顔がほころぶところも、めっちゃ好きです。

そして、でも、そこからグウェンの地獄が始まるのかぁとか、ちょっとひどいことを思ってしまったりもしましたが……。
続編作る気満々のようで、楽しみです。

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マイティー・ソー

映画、「マイティー・ソー」見てきました。

神サマが空から降ってくる馬鹿馬鹿しい映画です。
そして、ストーリーは、ほとんどひねりのない、ものすごく単純な物語です。

でも、それでいいのだと思います。
だってこれは、神話だから。

ソーは、はっきりいってただの乱暴者です。陰謀家のロキがたくらむ陰謀も、

「そんなこともわからんのかーー!!」

というぐらい、愚直な罠ばっかりです。
そして、それにしっかりはまるヒーロー。

「出てくるヤツは、馬鹿ばっかりかーー!!」

素晴らしい。その単純さ、まっすぐさが、神サマの属性であり、この映画のすばらしいところです。

大笑いしながら見ていました。

だいたい、この映画、わたしがよく利用している映画館では、「吹き替え版」しかなかったです。
要するに、子ども用??
まったく、その映画館の判断は、正しいと思います。

………子どものお客は、まったくいなかったですけども。
ビジュアル的に、あんまり子どもにウケそうな要素はないですね。

こんなに楽しい映画なのに、あいかわらずアメコミの映画って、入場者少なかったです。
でも、マーベルの映画も、ちょっとずつ有名になってきたのか、「アイアンマン」の頃にくらべると増えてきたかなぁ。

えーと、この映画を見て、ドキドキするかといえば、しないと思います。でも、モヤモヤとしたものは残らない、楽しい気持ち、リフレッシュされた気持ちになるのではないかと思います。
それは、原作を知っている知らないにかかわらず。

もちろん、ちょっと原作の知識があれば、楽しめる部分もいっぱいあって、最近のマーベルの映画って、本当に、いろんな層に伝わるようにきっちり作ってあるなぁと思います。

次は、「キャプテン・アメリカ」かな?

そして、ソーには、「アベンジャーズ」で、またあえるのでしょうか?

楽しみです。

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ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2

「ハリー・ポッターと死の秘宝」PART2見てきました。
長かったハリー・ポッター、完結編です。
これで、映画もコンプリートです。

うーん、リアルタイムに子どもたちが成長していく物語を、ほぼリアルタイムで映画にしていくというのは、けっこう大変だっただろうなぁと思います。

もともと、原作のハリー・ポッターっというお話自体が、最初の巻は、あんまりおもしろくない話で、巻数を追うごとに深みを増していくお話でした。
で、それを映画にしていくと、後半が、重たい重たい……。
特に、「ハリー・ポッターと謎のプリンス」あたりからの映画は、ストーリーとして伝えなければならないことが多くなりすぎて、ちょっとしんどかったかなぁ~。

基本、原作を読んでストーリーを頭に入れてから見る映画ですよねぇ。それはこの「死の秘宝」では、とっても顕著で、けっこう一見さんお断りな映画になっていると思います。

これだけのストーリーを伝えようとすると、テレビドラマの方がよかったのかなぁとも思うのですが、毎回、いつもの風景から始まるところとかは、映画向きといえば映画向きです。

やっぱり、この作品は、原作が完結した今、全シリーズを見越した上で、切るべき所は切り、もう1回再編成して、映画化すべきだと思います。
今回のシリーズでは、いろんな要素を入れすぎて、そのせいで、説明不足になったところが多すぎな気がします。

ただなぁ、もう、同じキャストはつかえないので、そのあたり誰を使うのかは、難しいところです。自分の中でも、ものすごくイメージ定着してしまっています。
ハリー、ロン、ハーマイオニー、ミネルバ、、ルーナ、ベラトリックスあたりは、代わりがだれでも納得いかないかも。
ルーナ、かわいいです。ミネルバの老け方は、演技なんでしょうか?俳優変わってもあんまり違和感ないかもしれないけど、でっかくなりすぎたネビルも、良い味でていました。
まあ、ダンブルドアがわかっても、大きく違和感なかったので(多少、白から灰色になった印象は受けましたが)、大丈夫なのかなぁ?

リメイクされたら、また、見てみたい作品ということで。