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聲の形2

全7巻のマンガを映画にしたということで、マンガの方が丁寧に時間が流れていきます。
でも、映画の方も、どうしても入れたいエピソードやシーンを絶妙なところに入れているのがわかって、丁寧に作られていたんだなぁというのをマンガ版を読んで改めて感じさせられました。

こうやって、マンガ版をゆっくりと読んでいくと、あぁ、硝子のお母さんは手話できないんだとか、いろいろ気づくことも多い。そして、手話が出来ない理由も、なんとなくは見えてくる。
手話を覚えるって、大変。特に、周りに手話を使っている人間がいないのに覚えるなんてことは、なかなか出来ないと思う。硝子のお母さんは、子どもとゆっくりした時間を持つなんてこともなかなか出来なかったんだろうなぁということ、その理由に気づくのは、多分、けっこう難しい。

こういう物語って、親が出てくることって今まで少なかったと思うけれど、「聲の形」の2人の親は、どっちも好きだなぁと思います。どっちの気持ちも、すごく良くわかる。

なんかマンガ的な表現はいっぱいあって、マンガでしかかけない物語なのだけれど、大人も子どももそれぞれ等身大のリアルがかかれていて凄い。

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聲の形1

すごいマンガがあるよという話は聞いていて、まあ、購入はしていたのですが、聾唖、いじめと、なかなか重たいテーマだなぁということで未読でした。
今回、アニメ映画になったので見てきました。

映画、やっぱり重たかったけれど凄い良かったです。でも、もし映画館で見たのでなかったら、けっこう途中でめげて見なくなっていたかもとも思ってしまいます。
なんなんだろうなぁこの感じは。多分、「火垂るの墓」なんかと同じで、どこか、自分の罪の意識とかトゲに引っかかるところがあるからかもしれません。まあ、こっちはそれでも、なんとなく希望がある感じで終わって、後味はすごい爽やかなんですけどね。

映画は、メチャクチャよくまとまっていて、本当に必要なところだけを上手に詰め込んだ感じです。手話とかのシーンは、ちゃんと動いているアニメの方が、多分この話を進めるにあたっては優れていると思います。
ただ、深く見たり、内面を掘り下げていくのは、原作マンガの方がいいなぁと今回読んで感じました。
ちょっとずつ、ちょっとずつ、みんなから離れていく感じとか、西宮さん転校までの時間の経過とかは、マンガの長さがあってのものです。

この年齢の子に、ダメなことがなぜダメなのかを伝えるのは、とても難しい。言葉で、根気よく伝えていくというのは、とても言うのは簡単だけれども。伝わる前から、そのダメな行為そのものは、無理矢理にでも止めないといけなかったりもするし。
映画の感想なんかを見ていると、担任がクソだ、川井さん怖いとか、植野さんや、将也は悪くないみたいな感想が出てたりしているけど、まあそれは、自分のなかの罪を見つめないで、人の罪を告発していたら楽だろうレベルの話だと思う。そういいたくなるのは、自分が、植野さんや、将也であるからかもしれない。(そして、ぼくがこうかくのは、自分が担任や川井さんであるからかもしれない)。

なんというか、生きているだけでねぇ、なんか人にひどいことしているっていうことはあるし、それは多分許されないんだと思います。

それでも、西宮さんが恋をしたのは、将也の真っ直ぐなところ。でも、それが唯一の正解ではない。そういうこともあるかもしれないということで、なにが正しいか、なにが正しくないかは、180度変わってしまうこともある。

映画で気になっていたのは、西宮さんは恋をしていたけど、将也の中にあるのは贖罪の意識だけなんじゃ無いかということ。そうすると、関係としては、いびつな感じだなぁと思ったりしています。まあ、映画が終わっても、登場人物たちの人生は続いていくので、その中で、関係性も変わっていくのだと思うけれど。
そのあたりが、丁寧にかかれた原作でどうなっているのか気になります。

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思い出のマーニー

映画見てきて、その後に本を読みました。
本は、複数の出版社から出ています。ハードカバーの青い本が気になったけど、文庫本があるので断念。
こういう翻訳文学で、児童文学なら、新潮文庫が堅いかなということで、新潮文庫版をチョイスしました。
岩波版の「です・ます」調の翻訳にも、ちょっと引かれたのですが。

まずは、映画の感想ですが、すぐに原作本を購入して読んでいるのからわかるように、かなり気にいりました。

映画を見にいく数日前に、多分この映画のプロモーションとしてテレビで同じ監督の「借りぐらしのアリエッティ」をやっていて、そっちは、ものすごく「なにか足りない」感が多くて、これは、「マーニー」見にいくのやめた方がよいかもしれないなぁと思ったりしていたのですが。
「マーニー」は、「アリエッティ」とは、比べものにならない位の完成度でした。

「トトロ」は、びっくりするぐらい事件がほとんど何も起こっていないにもかかわらず、見入ってしまう映画でした。
「アリエッティ」は、逆に、いろんなことが起こっているわりに、感想が「それで?」みたいな感じの映画でした。人間関係や物語のなにかもかもが宙ぶらりんのまま、でも、アリエッティは引っ越しして終わりってどういうことよという思いが。まあ、それがリアルと言っちゃあリアルなのかもしれないし、あの小人がでてくるファンタジーでリアルさを感じるというのはある意味、すごいことなのかもしれませんが、なんか、もっとちゃんとしたお話に出来るだろう感が強かったのです。
で、「マーニー」ですが、動きだけでいったら、その「アリエッティ」よりも動かない映画です。でも、ドラマは、「アリエッティ」よりもあるのです。

まあそれは、こっちのストーリーが、わたしにとって好みのだというだけかもしれませんが。
基本、わたしの物語を読むって、感情移入なんだけど、それが、いきすぎちゃった感じ、引きずられすぎるぐらい引きずられる感じがあります。
映画を見ていて、あの画面に映っているのが、杏奈か自分かの見分けがつかなくなっちゃってる感じになりました。
だから、本当は、いい映画かどうかなんてわかんないんですよ。
でも、いい映画かどうかなんでどうでもいいぐらいに、自分の深いところに刺さったのは事実です。
だから、映画が、あのいい感じのところに、無難なところに着地してくれなかったら、今頃、うつになっているんじゃないかとすら思います。

魔法の輪の外側にいるって、わたしの中では、みんなの周りに輪があってそこに自分が入れていないイメージではなくて、自分の周りに輪があって、そこに自分しかいないイメージなんですよねぇ。
輪の中には自分しかいない。そして、ここが外側だ。意味わかんないかもしれないけれど。

まあでも、その輪の外側にいる感覚というのは、けっこう誰もが感じている普通の感覚という気もするんですけどね。

そして、輪の中に入るっていうのは、誰かの輪に入れてもらうことではなくて、実は、この自分に向かって閉じている自分の輪を少しだけ広くして、少しだけだれかを入れるっていう事なんですよねぇ。
それが、わたしらにはどんだけ抵抗のあることかを思い知らせてくれる映画でもあります。
だから、最初は、そのわたしのいる(杏奈のいる)「外側」に入ってくるのは、たった1人だし、マーニーのような「秘密の友だち」であるのです。

その存在が事実や、生身の人間であったかどうかは問題ではないのです。
その時に、自分の全身全霊をかけて、「信頼にたる人と出会うことが出来た」という経験は、事実であろうとなかろうと、るその人のなかの真実なのですから。

まあ、いつ杏奈が、廃墟になった湿っ地屋敷で、白骨化したマーニーに出会うんだろうかとか、映画みている間は、ちょっと思ってもいましたが。

マーニーが何者であるのか?
孤独な少女が生み出したただの想像上の「秘密の友だち」なのか、それとも、実在の存在なのか。
そこは、「トトロ」同様、ものすごく上手にぼかされています。
どっちの解釈も、ものすごくしっかりとできる。
ある人は、これを本当に不思議な少女と過ごしたそういう物語として受け取るだろうし、また、ある人は、不安定な杏奈の心と記憶が生み出した幻の少女だと解釈するかもしれない。
そして、このどっちの解釈も可能なファンタジーというのは、けっこう大事なことなのではないかと思います。
ただのファンタジーは、ファンタジーを信じる人のためだけのものですが、こうやって、ファンタジーじゃない解釈をいれることで、ファンタジーなんだけれど、すべての人に起こりうる物語として形が作られています。

わたしは、わたしが好きと思っている人には、この映画見て欲しいと思います。
それで、どんな感想を持つのか話したいなぁと思います。特に不器用に生きている子たちと。

あと、プリシラ・アーンのあの歌がものすごくいいですよねぇ。
あれも、心に突き刺さる歌です。

というのが、映画の感想です。
ストーリーとかは、これ読んだだけではさっぱりわからないと思います。
アリエッティダメだった人も、見てみてね。

で、ここから本の感想です。

実は、映画は、ものすごい繊細なお話で、多分、本の方はそこまではないだろうなと思っていました。
それは、たしかにそのとおりだったのですが、本の方が明確に見えてくるものもあって、そこが面白いなぁと感じました。

その1つ目は、映画の杏奈と本のアンナの違い。
感じ方や、置かれた状況は、ほぼ同じなのですが、けっこうわしのなかで、印象が全然違いました。

実は、「思い出のマーニー」の本を読んでいる間、ずっとわたしのなかに、似たような印象の本として浮かんでいたのは、「自閉症だった私へ」なのでした。

そう考えて物語を読むと、アンナの人との接しにくさや、ワンタメニーとの関わり合い、マーニーとの関係、たくさんのこだわりが、なぜ彼女にとってマーニーが必要だったのか、ものすごく理解できる様に感じます。
「暗闇の速さはどれぐらい」も、そういう主人公の物語でした。

と思って、ねぇさんに、

「これって、『自閉症だった私へ』に似ていない?」

と聞いたら、

「えぇっ、あのレイプされたりひどいことされる話だよねぇ」

と言われてしまった。
えぇ、「自閉症だった私へ」って、そんな話だったっけ?それは、わたしの印象の中にはまったく残っていないのだけど。
まあでも、たしかに虐待の話とかはあったですが。
それよりは、自閉症スペクトラム障害を持った人同士が、自分と同じ感じを持つ人を見つけて理解し合って静かに過ごしている様子や、石の小さな差異がわかったりという部分が印象に残っているのですが。

そして、アンナが過敏な部分や、言葉をそのままストレートに受け止めてしまうところは、どこか、作者が自閉症スペクトラム障害を持った子どもをイメージして書いたのではないかなぁと感じたのでした。
もちろん、作者が、そういう障害のことをしっていたかどうかはわからないのですが、多分、その時にモデルになった人物や出来事の一部に、そういう人がいたのではないかなぁと思ったのでした。

多分、アンナとワンタメニーは、お互いが同じところがあるということを感じたのではないかと思うのです。
だから、お互いに気むずかしい感じ同士なのに、自然と接している。
少なくとも、そういう関係が成り立つということをリアルに知っていたのだろうなぁと思います。

そういう「理解しにくい人」をそれでも理解したいと思ったときに出来た物語が、この「思い出のマーニー」ではないかと思います。

自閉症スペクトラム障害を持った人を健常者は理解しにくいです。
基本的に、「心の機能」が理解しにくい自閉症スペクトラム障害といわれていますが、「自閉症」について書かれた本を読んでいると、けっして、他人の「心の機能」が理解できないのではなくて、おそらく別のルールで「心の機能」が動いていることがわかります。だから、同じ障害を持った人(同じルールで「心の機能」が動いている)同士なら理解し合えます。
実は「人の心がわからない自閉症の人」というのは、自閉症の人の心がわからない健常者という意味でもあります。

でも、理解できなくても、少しでも知ることや、想像することが出来たら、多分、その人の居場所をつくることができる。
それは、治療とは違う考え方として、一緒に生きていくことが出来るのではないかなぁと思います。

障害が、オープンになっていく過程で、その言葉なんかを侮蔑の言葉として使うことで自分の不安を解消しようとする人間というのは、いつも一定数はいるのですが、そこで止まってその言葉を禁止して終わるのではなくて、その「違い」こそを共同体の強みとしていくことは可能なんじゃないかなぁと思うのです。

実は、健常者、障害者といっても、スペクトラムって一続きの連続体で、どこかに明確な切れ目があるわけではありません。
だから、だれもがなんらかの偏りをもっていて、なんらかの生きにくさをもっています。自閉症スペクトラム障害の人は、その生きにくさが人よりも強い。
人よりも強いといっても、人同士でどれぐらい辛いのか心の中を比べることはできませんので、まあ、外から客観的に見て判断するしかないわけです。

多分、ある時代、「障害」と呼ばれなかった差異でも、時代と共に「障害」とよばれることもあると思います。
「障害」って呼ばれても、それはいいのかもしれないと思います。その差異を知ることこそが、第一歩で、みんな自分なで同じで、自分と同じように感じ考えると思うことが実は差別を生んでいるような気がします。ただ、その「障害」を排斥するための言葉として使わずに、一緒にお互いが楽しく暮らしていくためには、どうしたらいいのかということを考える言葉として使われて欲しいと感じます。

そして、少し自分よりスペクトラムの向こう側にいる人だがいるなと感じるときに、もしかしたら、その子は、こんな風な「マーニーのいる世界」を見ているのかもしれないと想像することは、多分、お互いに生きていく上でとても楽になる考え方だと思います。

映画の彩香は、ちょっとオタクの入ったアクティブな女の子でした。

でも、本の方のプリシラは、ちょっと気むずかしい女の子としてかかれています。プリシラもまた少しかたよったところがある女の子なのだと思います。
彼女の家族は、プリシラやアンナを、いてもいなくても同じように扱います。それがとても、アンナを安心させる。
そういえば、下宿のおじさん、おばさんもそうですね。
まあ、映画では見てて、あんまりにも気にしなさすぎだろうとか、思ったりはしたのですが。
でも、そこに愛情がないわけではない。
見守ってくれているという安心感はものすごくある。
それは、この家が、子だくさんの家だからという感じで本では書かれていて、それは、確かにそうだなぁと。
ある意味、手がいき届かないからこそ伝わる愛情もあるのかもしれないと思ったりしました。

映画と本とどっちが好きかといわれれば、断然、映画なのですが、原作本のマーニーも、いろいろと生きることを考えさせられる1冊でした。

ちなみに、今までで1番衝撃をうけた、原作と映画で違う物語は、「私の中あなた」です。

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X-MEN フューチャー&パスト

X-MEN デイズ・オブ・フューチャーパスト

映画、「X-MEN フューチャー&パスト」を見てきました。
めっちゃ、良かったです。

まあ、わたしが昔からのX-MEN好きだということを省いても、今までのマーベルのアメコミ映画のなかで、ベストといっていい出来だったんではないかと思います。
しかも、今回、シリーズものとしてもよかった。

シリーズ物って、「3」ぐらいまでいくと金はあるんだけどなんだかどんどんお話はいろんなもの出し過ぎでわけがわかんなくなっていく傾向があると思います。特に、旧「スパイダーマン」の3とかは、なんか、作品をうまく収拾できなかった感じが大きかった。

でも、この物語は、今までの「X-MEN」の物語のラインの全ての続編でありながら、単品としても見られて、しかも、確かに全部をまとめた凄い映画になっておりました。

ということで、この映画の原案であるアメコミ「X-MEN デイズ・オブ・フューチャーパスト」も勢いで読みました。
映画の「フューチャー&パスト」の出来があまりにもよかったので、ちょっと期待度が上がりすぎでしたねぇ。
この本の価値としては、フェニックス・サーガの続きが読めるというところかなぁ。

デイズ・オブ・フューチャー・パストの話自体は、短いです。どっちかというと、ジーン・グレイ亡き後、サイクロップスの抜けた後のストームがリーダーになったX-MENの活躍と、そこに、新人若手のが、キティ・プライドがどうやって成長して馴染んでいくのかという話が中心です。

そして、未来がどうなったかも、けっこうわからないままで終わってしまいます。まあ、ずっと続いていく物語なのに、未来が確定したら困りますからねぇ。
といいつつ、今まで、何人も未来からヒーローが来ているX-MENなのですが。

以下、ネタバレも含めての映画の感想です。

ジョン・バーン,John Byrne,
ジョン・ロミータ・Jr.,John Romita Jr.
クリス・クレアモント,Chris Claremont,
御代 しおり
ヴィレッジブックス
発売日 : 2014-05-20

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偉大なる、しゅららぼん

しゅららぼん県民の必読書(笑)
小説版を読みました。

長さの割には、なんかすごい展開は少なかったような気がします。
うーん、逆に、「鴨川ホルモー」は、あんなに短いのに、なんであんなに詰まっているんだと思うんですけど。
でも、この本は、そのなんともいえない日常感がよかっです。

万城目 学は、一人称の方がおもしろいなぁと思います。「マドレーヌ夫人」は、けっこう好きなんですけどね。あれは、いろんな人称が混ざっていた感じかな。大阪は、イマイチのらなかったので、ちょっと心配していたけど、これはけっこう好きです。

まぁ、わたしが住んでいた湖南の方や湖西の方と、この小説の舞台である湖東や湖北は、やっぱりちょっと風景が違うのが残念でしたけどね。

最後は、イーゴスで対決とかしてほしかった……。今はもう、イーゴスなくなったけど。

マンガ版の方が、棗の妹とのエピソードなんかは、ちょっと膨らませてありますね。

映画も、公開。うーん、ドタバタ劇ではなくて、渋い感じで淡々とした映画になると楽しそうな気がします。

ということで、映画も見てきました。

バッサリやられていたなぁ。
ものすごく上手に作ってあって、原作に忠実に作るのならこれしかないなぁという物語のカットの仕方だったのですが、原作とマンガを知っているものとしては、ちょっと不満が残るかなぁ。
日常の積み重ねが少なくなってしまっている感じでした。
淡十郎は、人間には見えなかったけど、ああいう生き物として存在してそうな感じがしていて、そこは良かったです。