いるの いないの
怪談えほんのシリーズの1冊。
今調べてみたら、第1期に5冊でて、第2期ら4冊出ているようです。わたしは、第1期の5冊しかしらなかったです。そのうちで、面白そうだと思ったのが、「悪い本」とこの「いるの いないの」でした。
たしかに、古い家の屋根のところにはなにかいそうだなぁと思っていました。
でも、おばあちゃんの反応が、なんというかいいのです。こっちの反応も、ある意味怖い。
原作を読む前に、映画を2回見てきました。
もちろん、ものすごく良かったというのもあるのですが、最後の右手の意味はなんだったんだろうというのが、ものすごく気になったからでもあります。最初、ホラーかと思った。
それは、映画のラストの歌が「みぎてのうた」であることや、この原作を読むことで、腑に落ちました。
今まで、ずっといろんなことをしてきて、いろいろなものを生みだしてきた右手は、なくなった後も、物語を紡ぎ続けていた。過去の物語も、未来の物語も。
1つは、りんさんの生い立ちという過去の物語だし、もう1つは、母親を亡くして北條家に来た女の子の話でもある。さらには、鬼いチャンが人買いになる話も含まれている。もっといえば、「この世界の片隅で」という物語全体すら、その右手が語った物語だといえると思ったりしました。
もしかしたら、全ては、ただのすずさんの妄想なのかもしれない。でも、それは世界を変化させていく力を持っているのかもしれない。
そう思って見たとき、ものすごく唐突に見えるさぎのエピソードも、実は、見えていたのはすずさんだけなんじゃないかと思えてきたりします。あの絵、さぎの部分だけなんか浮いている感じがするんですよねぇ。
最後の「しあわせの手紙」は、「みぎてのうた」の元になったものです。
こっちの方が、長くて詳しい分、ドキッとする表現も多いのですが、好きです。
読むたびに、うなずきながら、そういうふうに生きられたらなあと思います。
「ドン伝」に、小角登場。
この巻の題名は、これでも良かったし、「午前の2時の丘」でも、「遠い声」でも良かったのに、なんで、「友だちに似ている」なんだろう……。
秋田版と題名を変えたかったかのかな。
でも、この話って、小角はどっちかというと狂言回し的な立ち位置で、「午前2時の丘」からスタートしても全然、困らなかったのになぁと思います。不思議な1話です。昔の読み切りの「最終戦争シリーズ」の薫りがしして嫌いじゃないですけどね。
なんで、この時の小角は、影の髪型をしていたのでしょう。変装?
そして、その後、「必要」といわれて連れて行かれたフュスリは、出てきたっけ?
パトロールシリーズと初期のハルマゲドンシリーズの後の小角。
なんか、パトロールシリーズ直後みたいに感じるけど、あれから、30年以上の時間がたっている……と思うと、メチャクチャ切ないですよねぇ。
まあ、最初の小角のニヒルな感じはなくなっていて、同一人物といわれるとかなり混乱してしまいますが。
まあでも、ヒーローな感じの小角はわたしも好きです。
「午前2時の丘」の後に、この話がくるっていうところが、山田 ミネコの凄い(というか非道い)ところだなぁと思います。
なんというか、それならば、あの時の選択はいったいなんだったのかという、虚無感を抱え込むことになる。
人とデーヴァダッタとの戦いというのなら永都が中心になるだろうし、人とデーヴァダッタとの関わり合いということなら星野と笑が中心になっていくはずで、ここで小角のすべきこととか、出来る事って、本当になさそうな気がします。
唱との関係も、ハヌマンに負けている気がするしなぁ。
どんどん追い詰められていく。
その中で、ちょっとずつ知り合いが増えていくこの展開は、今も(わたしが読んでいるところでは)続いていて、けっこう好きですが、このあたりはかなり読んでいて辛かった思い出があります。